Archive for the ‘Uncategorized’ Category

デコンタでモル

August 20, 2016

ここに一枚のコピーがある。
1991年2月5日

曰く「私共は、TATA86フェスティバル以来、常に上演とトークを並行させつつ、演劇が演劇でなくなろうとする瞬間、その瞬間における言語の特異なあり方に注目してきました。それは演劇のみならず、すべてのアートを貫く現在的課題のように思われます。」

mol_letter_1991

TATA86フェスティバル?
上演された作品はこれだ。

mol_parasite_1986

モルシアター《パラサイト》(@金浜海岸うみねこライン沿い・白い巻貝の砦)の前作《一/四》Ⓟテス

mol_1:4_1986

同じく《一/四》より白山敦子 Ⓟ会田健一郎

そして1986年と云えば・・・

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《f/F・PARASITE》©ISA, Shigeyuki TOSHIMA and The Molecular Theatre

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《f/F・PARASITE》©ISA, Shigeyuki TOSHIMA and The Molecular Theatre

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《f/F・PARASITE》©ISA, Shigeyuki TOSHIMA and The Molecular Theatre

言うまでもなく、モルシアターがモレキュラーシアターと呼称を「変え」、更に、及川廣信プロデュースによる《f/F・PARASITE》@T2スタジオを引っさげて「起動」した年でもある。

それから30年が経過した(らしい)。

改築工事に伴う八戸市美術館の閉館のため、今年で一旦「ナカ締め」となるというイカノフ企画展のチラシにモレキュラー30周年の記載は見当たらない・・・と思ったら、思わぬところに潜んでいた!

dekonta2016letter

8月27日(土)18時〜

モレキュラーシアター公演(9分11秒+3分11秒)
『カリヲのキバ
〜ハエを呑みこむ口が、ハエの口に呑みこまれるにはどうすればいい』

これを体験せずに「五年目の夏」を終わらせることは出来まい。
直ちに予約されることをオススメする。

 

妄想の空隙/空隙の妄想

June 10, 2014

妄想子が脆くも妄想の空隙の泥炭地に脚を囚われている内に、何時の間にやら数年間ほど時間が経過していたようだ。遠く島守盆地北方からの風の噂によれば、今夏にも亦モレキュラーに動きがあるらしい。妄想力を鋭意再駆動したい。

錫杖銀龍

August 20, 2011

本年一月の〈のりしろ〉公演に続き、晩秋、北方に動きがある。

三月十一日以後に遍在・併存する「複数の時間」の中で、たとえばカトリーヌ・マラブーの言うところの「可塑性」=形を与える能力/形を受け取る能力、或いは解釈や物語化によっては対抗し得ない/治癒し得ない「傷」、或いは「痕跡」といった問題を考える好機になる、かも知れない・・・。


ダンス・バレエ・リセ 豊島舞踊研究所 第55回記念発表会

ギンリョウのたびだち ―豊島和子追悼公演

10月23日(日)
八戸市公会堂大ホール
入場無料
13〜17時頃

そもそも「ギンリョウ」とは如何なる意味を持つものか。

ダンス・バレエ・リセ芸術監督=モレキュラーシアター演出家の豊島重之のもと、モレキュラーシアター大久保一恵田島千征による追悼作品が上演されるほか、及川廣信根本忍橋本晋哉による豊島和子追悼特別公演も予定されている。

とすれば、モレキュラーマニアは10月の八戸行きを計画せざるを得まい。

陽光のエクリチュール・豊島和子氏追悼

March 28, 2011

被災地に居住する家族を伴っての避難行の最中に、突然、訃報が届いた。
一瞬、言葉を喪った。

豊島和子氏(1929-2011)

言わずと知れた江口隆哉・宮操子門下の特筆すべき舞踊家であり、モレキュラーシアターの源流/母体でもあった。豊島舞踊研究所ダンスバレエ・リセ門下生の内外での活躍も浮かぶ。

<豊島和子略歴>

江口隆哉、宮操子、二瓶博子に師事

1956年 豊島舞踊研究所創設、主催
1964年 全国舞踊コンクール指導者賞受賞
1966年 八戸市芸術文化奨励賞受賞
1976年 青森県芸術文化奨励賞受賞
1992年 八戸市文化賞受賞
1995年 八戸市文化功労者賞受賞
2001年 デーリー東北賞受賞
2002年 青森県文化賞受賞
2005年 国際ソロプチミスト八戸より女性栄誉賞受賞
2006年 東奥賞受賞

社団法人現代舞踊協会会員
社団法人青森県文化振興会議会員
青森県洋舞連盟会員
八戸市文化協会会員

『千のティンガラ(星の雫)』豊島和子(2009)

かつて及川廣信が

すべては豊島和子さんから始まった。彼女の「内的」な独自な踊りが源流であった。(『豊島和子と豊島重之・・・ダンスバレエ・リセとモレキュラーシアターの源流』/PANTANAL2006)

と書いたように、或いは

当時医学生だった弟の重之を裏方の一人に抜擢させて1966年の十周年公演—私の勘に狂いはありませんでした。いつしか76年の二十周年公演を演出・構成し、86年の三十周年公演に当たっては、行き場のないリセの卒業生を中心したカンパニー「モレキュラーシアター」を結成し、その初演作「f/F・パラサイト」は東京でも好評で、翌87・89年・92年にはドイツ・チェコ・イタリア・ポーランドなどの国際芸術祭に招待されて渡航を繰り返すようになりました。私も、思うようには動いてはくれないこの身体を海外各地へと運んだ記憶は、リセの小さな歴史の重みを担っています。また、96年の四十周年公演がオーストラリア「アデレード芸術祭」招待公演や、リセのリニューアルと重なった記憶も、私には貴重なものです。(『記憶の源流/パンタナル』/前掲書)

と豊島和子氏自身が書いたように、25年間に渡るモレキュラーシアターの演劇実験/実験演劇を相互に支えてきた柱のひとつが、豊島和子氏の存在だった。

豊島重之は、次のように書く。

私は50年前の豊島和子の舞台を観た。大勢の黒い影の頭ごしに。私はとても小さかったから。なんだか怖い気がして客席の後ろのほうで「爪先立ち」していた。ウロ覚えでしかないが。

2〜3年で消え去っていく舞踊家やカンパニーもあることを思えば、半世紀もの継続には、やはりそれなりの大きな意味があろう。半面、たった一つの舞台で人々の心を震撼させたまま、消え去り得た舞踊家こそが「真に幸い」なのだとすれば、半世紀もの間、欠かさずソロダンスの舞台を踏んできた豊島和子は「幸い薄き」舞踊家と言えるかも知れない。

——「ギンリョウソウ」「蚯蚓、丘を引く」「デンデラ野」「ここはどこの細道ぢゃ」「パンタナルの蚊柱」そして昨年「セラーン=天泣」今年「ピカイア」来年「お背戸に木の実が落ちる夜は」——。

生きてしある限り踊り続けなくてはならない。それは当人の選択や責任でもなく、ましてや自己表現に徹する願望や覚悟に基づくものでもない。選択や願望の余地もなく、容赦もない、ある環境ある条件下に避けがたく生じた。強いて言えば「単に息している」ことから発したとしか言いようがない。豊島和子にとって50周年は節目ではなく、在り得ないかも知れない51・52・53回目の舞台こそが「常に既に先送りされた」節目なのだから。

<彼女はただ、彼女自身のみを知ろうとしている。>
及川廣信さんの文末の一行は、ここにも響いている。
(『地衣類の微光のその先へ』/前掲書)

いまは言葉を弄すべきではないし、思考を紡ぐこともできない。

然し乍ら、写真を「光のエクリチュール」と書いたデリダに倣えば、豊島和子氏の舞踊・身体表現には、「身体/境界線のエクリチュール」と云うよりも、それらを含めた「空間的エクリチュールに係る実時間転移の表出」とでも云うべき「気配」が認められていたように想起される。

豊島和子氏は「春の陽光ふりそそぐなか」逝かれたと聞く。
いまは静かに、陽光の中に垣間見える豊島和子氏の踊りを観感しながら、その「ジュクルパ」に耳を傾けたい、と思う。
合掌。

佐喜眞

July 14, 2010

この夏、モレキュラー演出の豊島重之が、下記のイベントに出演する。

骨からの戦世―65年目の沖縄戦:比嘉豊光展(佐喜眞美術館)

比嘉豊光展「骨からの戦世 ―65年目の沖縄戦」
シンポジウム「「骨」をめぐる思考」

  • タイトル:「写真の「残りのもの」―死/表象をめぐって
  • 開催日時  8月15日(日)14:00~
  • 開催場所  佐喜眞美術館
  • パネリスト 倉石信乃・豊島重之・土屋誠一

場所、時節、内容どれを取ってみても、相当にハードなシンポジウムになることは間違いあるまい。マニアの方は、相応の「準備」を行った上で、沖縄へ。

凶器を狂気だけにしない魔のスレスレ

June 3, 2010

明日から「伊藤二子展」が始まる。
容赦なく始まってしまうのだ。

伊藤二子展チラシ | designed by ASOBI Sasaki

昨日の己れを超え得たか。
太古の風をひきつぎ得たか。
現代に存在しうるものであるか。
明日への展望をもち得たか。
社会に連帯しうるものであるか。
これが私のいのちの形なのか。
(伊藤二子)

土曜日に観覧する予定にはしているものの、「鋼のナイフで塗り込められたダークマターの記憶・苦役・未完にほかならず、僅かに塗り残されたその消息から切り返されてくる照層の「窮部=ポワン・キュルミナン」」(豊島重之)あるいは「漆黒面を敢えて失う造形工程によって、パラドキシカルにもがきだす黒の「マテリア=物質性の底面」」(同)と、果たして正対し得るのか、その展示の前で思考し言葉を紡ぐことが可能なのか、甚だ心許ない。
そう、伊藤二子を見る/観ることには、「覚悟」も必要なのである。

モレキュラーシアター演出の豊島重之と伊藤二子の出会いは、44年強前のことという。その伊藤二子の名前がモレキュラーあるいはICANOFの刊行物に登場するのは、未確認ながら、モレキュラー20周年「PANTANAL」(2006)の豊島による編集後記が最初であると思う。

なぜ2006年だったのか。
なぜもっと前ではなかったのか。

PANTANALの編集後記(2006.08.28)で豊島は、伊藤二子の絵画造形に対する豊島なりのオマージュ=二つのヴァリエテとして、1)伊藤二子の作品群は、ポアンカレの「決定論的カオス」的な現象のような波及性/外部性/潜在性を担っていること、2)ゲルハルト・リヒターの33層のアブストラクト絵画との「共現前」、を挙げた。

後者では、

共現前とは単に同時代性や影響関係を意味しません。ドイツではリヒターが、日本では二子さんが、それぞれ別個に単独的に内燃し、絶えず限界に直面しつつ、その限界を突き抜けて<いま・ここ>に「現働化=アクチュアリゼ」している。現働化とは、可能性の「実現=レアリゼ」とは対照的な様態です。レアリゼは、描画前のモチーフや色面=プランや質感=タッシュにあらゆる可能性を盛り込みつつ描画的に実現すること。ところがアクチュアリゼは、タブロー上で可能なそれらの実現/再現/表象を赦さない。その反対に、不可視/不可知/不可蝕なもの、要するに潜在性の地平が露頭してくる事を指しています。

としている。

これに留まらず、編集後記として採録された伊藤二子への書簡の中で

二子さんの展示は私には、生きてしあることを恥じるな、恥じるなら恥じて恥じて、さらに恥じ抜いて、その恥辱の地層の底をぶち抜け、と呼び掛けているように思えました。決して恥辱の地層の手前で思考したり言葉を紡いだりしてはならないと。

とまで書いた。

さらに

伊藤二子さんの油彩造形は、私達モレキュラーシアターの20年の苦楽が何程のものでもない事を真っ直ぐに告げ、それどころか私達が痛感している以上の舞台に「立つことのクリュオテ=残酷」を贈与しつづける。贈与とは「返礼なき贈与」の事だ。どんな返礼も避けなくてはならず、あらゆる返礼はあってはならない。一方的かつトタール=全的、それが贈与だ。決して内面化される事のない残余。内部なき「絶対的外部」。

と記している。

もうおわかりだろう。
ここまで記したことだけでも直ちに了解される通り、モレキュラーマニアは、何はともあれ、伊藤二子展に、彼女の作品に、まずは立ち会わなければならない。

2006年以後、伊藤二子に関するテクストは増加していく。
ISTHMUS(2007)では、たとえば採録されたトークショー/2007.04.15において、鵜飼哲が、

伊藤さんは逆に、ご自分の作品にタイトルを与えないんですね。そのことが伊藤さんの芸術を理解する上で私は大変、大事なポイントではないかと思うんです。

孤絶した、一作一作のタブローが、逆にですね、星座のようようにつながり合って(略)新たな作品の空間を、この「空間という作品」を作り出しているような気がしています。

といった指摘をはじめ、「多孔性」の問題に触れた後、「必死に考えようとしているポイント」として、

この伊藤さんのほとんどの作品が最初にその色に塗り込められる「黒」のことです。(略)そこから、いわば「放ち下ろす」ですね。それは、そこに向かって「放ち下ろす」空間、そうやって作られるということでもあり、そこから放ち下ろされた自分、というものを発見する、そういう空間でもある、そういう気がします。ジャン・ジュネの作品に繰り返し出てくる「夜」のイメージに、私は非常に近い感触を覚えます。

と語ったほか、八角聡仁が、「フレーム」の問題のほか、ジュネの「アルベルト・ジャコメッティのアトリエ」における「美には傷以外の起源はない」を踏まえて、

(伊藤さんが)作品をナイフで描いていくというのは、これはまさに「傷」を付けていく作業ですね。そして傷というのは、身体の内部と外部が、いわばめくれ返るようにして通じてしまう、或いは裏返ってしまう場所ということになります。そして傷は同時に、そこで起こった出来事の痕跡でもある。それでは、ナイフで絵が描かれる時、そこで「傷つけられるもの」は一体何だろうか。また、傷によって今まで見えなかった内部が外部に露出してくるとすれば、そこでは何が描かれ、作品とともに何が起きているのか、そんな問いがひとまず考えられると思います。

と指摘している。

こうした例示は枚挙に遑がないので、「PANTANAL」「ISTHMUS」「68-72*世界革命*展」そして「BLINKS OF BLOTS AND BLANKS/露口啓二写真集」を、マニアは通読されたい。

伊藤二子自身によるテクスト「外にあり 内にあり 刹那にあり」も、ISTHMUSに収録されている。ここでは敢えてこの内容には触れないが、このタイトル(彼女の造形作品にはタイトルが与えられていないが、このテクストにはタイトルがある)を繰り返し目で舐め、なぞってみるだけで、ダークマターに浸潤されそうな予感を覚えるのは妄想子だけか。

妄想ついでに記しておけば、昨年訪八した時には、実際に観ることができた伊藤二子の作品および豊島和子の舞踊と、なぜかジョルジュ・ブラックについてのベルナール・ジュルシェのテクストとが、脳髄内で明滅しつつ半融合と半分離を繰り返していたように記憶している。また「敷居」と「差し引き」の問題は、それ以後妄想子自身の活動における問題として、常に傍らにある。

1926年生まれの伊藤二子と同年代の豊島和子(先日逝去した大野一雄と同じく江口隆哉・宮操子門下)が、それぞれ造形と舞踊において提示し突きつけるもの・ことに、いま、目を逸らしてはならない。

イマージュ?

February 8, 2010

昨年11月の「マウスト」公演の時(恐らく中日)のことだ。

Henri_Bergson (wikipedia)

会場に早目に行った妄想子は、会場の入口で、豊島氏が煙草を燻らせながらある雑誌を読んでいるのを見かけた。その雑誌は、岩波書店の月刊「思想」12月号「特集:ベルクソン生誕150年」だった。

単に定期購読しているだけかも知れないし、手持ち無沙汰だっただけかも知れないが、もしかして次の作品に何か関係が・・・と妄想してしまうのが、モレキュラーマニアたる者の宿命だろう。

ちなみに、豊島氏がその場を離れる時、雑誌が開かれた状態で表紙を上にして下駄箱に置かれていた。雑誌はちょうど中程で開かれていた。12月号の目次で中程を見てみると、「知覚、イメージ、砂漠 ー仮説的断章ー(宇野邦一)」の記事がある。う〜む・・

なお、ジュンク堂書店池袋本店では、いま「思想」誌のバックナンバーフェアを一階壁面で行っている(なぜかWebのイベント情報欄には載っていないが)
ジュンク堂書店という名を聞く/呼ぶたびに、何故か「ジュン子・恐喝」が去来するが、妄想の為せるものに違いない。

裂け目

July 11, 2009

去る7月4日、モレキュラーシアターの豊島は、座・高円寺地下三階の尋問室めいた部屋にいた。部屋自体が尋問室めいているというより、エレベータを降りてから部屋までの導線とその質、および部屋の前にロビーのような空間が位置するという構造などが、古い記憶の襞をなぞってそう感じさせた。もちろんこの箱は豊島が選んだものではないが、一瞬、『イル/イル』などで触れられたラーゲリを連想した。

ラーゲリ

ラーゲリ

ここで豊島は、「モダニティの裂け目/モダニティという言説の裂け目」についてと前置きした上で、湿気/尻毛も凍りつくような話を展開し、場(の一部)を震撼せしめた。いずれ豊島自身による当該テクストを読める機会も来ると思うので、ここでは備忘録的メモと例によって妄想だけを記しておく。私にとっての妄想備忘録メモだから、必ずしも豊島の発言内容とその意図を汲取れていない可能性もある。

大逆事件

大逆事件

今回の豊島の報告(というべきか講演というべきか)は、「大逆と日本近代演劇の起源」(あるいは天皇制)というイベント全体に通底するテーマに関わるものだが、豊島は「裂け目」に接近するために、まず太政官と神祇官(=王と司祭)の話から始めた。

太政官、神祇官いずれも、古代日本における律令制(=まさに中央集権的統治制度)を導入する際に設けられた機関であり、かつ明治時代初期に突如「復興」された国家機関である(太政官:律令時代=だいじょうかん/明治時代=だじょうかん)

律令制は10世紀末までに死滅したというのが定説のようだが。しかし、何故か明治維新まで有効とされていた律令もあり、それが太政官制らしい。太政官は1868年(慶応4年/明治元年)に公布された政体書に基づいて設置され、1885年(明治18年)内閣制度発足と共に廃止された、国家権力全体を支配する機関だ。

かたや明治時代に復興した機関である神祇官は、祭祀、祝部(はふりべ)、神封(じんぷ)などに加えて、諸陵宣教が新たに職掌として加えられた。諸陵と宣教は古代官制では治部省が担当していたという。ここでは触れないが、神祇官の「神」は天津神である「天神」を、「祇」は国津神である「地祇」を指すという辺りも、よく考えてみる必要がある。歴史に関する記述を試みるといくら文章を連ねても切りがないので、これくらいで留める。

豊島は、「裂け目」として、

  • 太政官/神祇官制の復興
  • 神殿=神宮の登場

をあげた。
後者については、「神社 —> 神宮/大神宮(「裂け目」) —> 神社(復活) —> 公園(現在)」という流れを示した上で豊島は、なぜ「神宮」が建設されたのかという話を進めるにあたり、札幌神宮(今日の北海道神宮)と台湾神宮の写真を示した。

札幌神社

札幌神社

台湾神宮

台湾神宮

前者は、北海道大学北方資料室に残されているもので、後者は著作権が消滅しているものだ。いずれもWeb上で拡大画像を見ることができる。もちろん豊島は「写真」の問題も併せて触れたが、この妄想文では触れない。

また、同様の神社/神宮については、神奈川大学21世紀COEプログラムによる「海外神社(跡地)に関するデータベース」に詳しい。4日の講演では示されなかった朝鮮神宮や京城神社に関する写真も見ることができる。

海外神社(跡地)に関するデータベース@神奈川大学

海外神社(跡地)に関するデータベース@神奈川大学

南山神社

南山神社(同DBより)

提示された写真を含め、明治時代に造られた「神宮」について、その「内宮と外宮」といった「構造」と「立地」および「建築」が意味するものと、生者だけでなく死者も統治せねばならなかったその「使命」の解説がなされた。統治地域を拡大していく時期にあたり、北海道そして台湾、さらには京城といった「周辺」地域=複合コミュニティが形成される場所において、こうした「神宮」建設が行われたこと=〝伊勢〟が必要だったこととその意味について話が進んだ辺りで、それまで感じていた夏の湿気を意識することがなくなり、気がつくと尻毛が凍てついていたように記憶している。

豊島は、神宮の意味とその目的を、建築的な意味における「空間構成」とも併せて解読してみせたが、ここで提示された問題は演劇における空間構成といった小さな問題のみならず、アートにおける「裂け目」の問題とも連動しているように思う。神宮における空間構成の話を聞いた時に、何故かシュトックハウゼンの『シリウス』(1975-77)を連想した。

尋問室めいた部屋と冒頭に書いたが、こうした話、特にシステムとしての統治あるいは統治装置のシステムについての話を聴くには、如何にも相応しい場所であったのかも知れない。「モダニティの裂け目/モダニティという言説の裂け目」についての豊島の話は、現在の「アート」にも「裂け目」を打ち込むものだ。

豊島は、神宮/大神宮(神殿)が複合コミュニティが形成される時に造られたこととそのシステムおよびストラクチャを「モダニティの裂け目」(のひとつ)として呈示したが、もうひとつ現在も進行中の「公園化」の問題も取り上げた。復活した神社などの統治装置が「公園」としてリデザイン/リコンストラクトされ、均質化されていくという流れがあり、この公園化の動きが1910年大逆事件に繋がるとしている。この「公園」「公園化」についても(よく考えて見れば)慄然とするような指摘である。

個人的には、伏流水的な動きによってすべてが公園化/統治装置化/均質化されている状況にいまあると感じている。児童ポルノ規制の蓑を被った思想言論統制への歩みなどもそうだ。太政官制についても過去の話ではない。それは姿を変えて存在しているとも思われる。たとえば、2009年3月11日に衆議院法務委員会において、現在の死刑=絞首刑という執行方法は「太政官布告第六十五号(絞罪器械図式を含む)」が根拠法令と法務省が認めた、という下りをみても、統治システムを考えざるを得ない。

太政官布告における絞罪器械図式

太政官布告における絞罪器械図式

法務委員会第171回第2号

法務委員会第171回第2号

会場からは、帝国統治と劇場の関係といった話も出されたが、いずれにしても演劇に限らず、今日「アート」(←使いたくない言葉だが)を考える人間としては、如何にして批評性を確保するかという問題ひとつとってみても、いつもながら、非常に考えさせられる/考えていかなければならない豊島の問題提起だったと思っている。

まずは、今回例示された札幌神社/北海道神宮あたりから調べてみようと思う。
札幌神社〜北海道神宮の経緯については、西野神社社務日誌(ブログ)に非常に詳しい。

西野神社社務日誌

西野神社社務日誌

特に、北海道鎮座において、後に斬首される開拓使判官島義勇によって神祇官に提出された意見書には、鎮斎すべき御祭神として「大国魂神・大那牟遅神・少彦名神」ではなく「大名持神・少彦名神・阿倍比羅夫」とされていた、という下りも興味深い。外されたのは阿倍比羅夫である。阿部と聞いてピンと来ないひとはモレキュラーマニアの資格がないといっては言い過ぎだが、某演出家の・・・(自粛)

また、札幌神社が建築されたのは円山だが、台湾神宮も圓山だ。

アイヌ語地名で旅する北海道」(北道邦彦著・朝日選書)によると、藻岩山=モイワとはアイヌ語で「Mo(小さい)iwa(山)」のことであり、実はモイワとは円山のことだった、いまの藻岩山はインカルシぺ=「Inkarインカル(眺める)usウシ(いつもする)peペ(所)」だった、とある。別の資料によれば、アイヌ語のiwaは単なる山というより心霊の宿る山といった意味もあるようであり、「アイヌ語地名で旅する北海道」ほかでは倭人がモイワと円山を間違えたとされているが、実は札幌神社を建築するにあたって意図的にそうされたのではないか、帝国統治において「さまざまなこと」を「眺望」されては困るという側面もあったのではないか、と妄想することもできる。

藻岩山

藻岩山

円山

円山

台湾の圓山は、現在ではこうなっている。

圓山大飯店

圓山大飯店

北海道神宮は1974年11月10日、「アイヌモシリ」と名乗る犯人によって放火された。事件は迷宮入りした。