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にいちがに

November 17, 2012

訪八新幹線車中にて微睡みながらの妄想。

モレキュラーシアター《にのいち》について、豊島重之は

南郷を訪れた方なら、きっと虚空蔵=龍興山に山伏や忍者の面影を偲んだはず。そう、「くノ一」の消滅・失踪(disparition ディスパリシヨン)の技法を。「九から二まで」縮減(soustraction スゥストラクシヨン)する秘法を。あるいは「ニーニョ」「ニーニャ」なら酷暑・冷夏をもたらす異常気象。だったら「イチ」って何の位置? さあ、どうやって姿を消すのか、お試しあれ!

ゼロ年代モレキュラー東京公演の全作に一貫する特色をひとつ挙げるとしたら、それは「盲目性の身体表現」がいつもどこかに仕掛けられていることだろう。すなわち観客の視野からふと外れてしまう「out of sight」、それを企む出演者に要請されるのは「盲力=blind sight」なのだ。ダンスや演劇など舞台芸術において最も肝腎なのは、生々滅々する環界を見渡す視力ではなく、みえないものを察知する「盲力=blind sight」を動きの現働力とすることである。

書いた

ここにはディスパリシオンはあるが、アパリシオンがないように見える。
つまり、出幻/亡者自体が「失踪」している。

いつも葉書それ自体はここには決して届かず、
ディスパリシオン=消印だけが一斉に到来する。
アパリシオン=亡者たちのひしゃげた泳法。

と嘗て書いた(『パンタナルからイスムスへ』)豊島にあって、何が起こっているのか。

勿論、喪の可能性/不可能性、或いは集約的再喪失にも想いが走る。

だが直ちに、レヴィナス、ランボー、ブランショ、ギブスン、バルト、デリダ、吉増剛造、黒田喜夫、ラカン、そしてドゥルーズが襲来/到来してくるこれらのテクストから妄想するに、従前よりも一見懇切丁寧に「ヒント」を与えつつも、然しその実、従前よりも一層深いフチ=縁=淵=不知の地に、氏は足を踏み入れたのではあるまいか。

夢に
手足のない
蜘蛛たちが来て
戸口を
叩く
わたしたちにも
織らせて

(吉増剛造『何処にもない木』)

妄想子にあっては、ディスパリシオンといいスゥストラクシヨンといい、1945年にTârnăveniと再ー命名されたTransylvaniaのDicsőszentmártonに生を受け、六歳にしてCluj-Napoca=Kolozsvárに移り、ハンガリー語/ルーマニア語/ロマ語/ドイツ語の坩堝に翻弄され、その出自=ユダヤ系が故に家族がそれぞれ強制収容所に送られた挙句、父をアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で、弟をマウトハウゼン強制収容所で喪った作曲家ジェルジ・リゲティのアパリシオン=『Apparitions(1958-59)』が想起されてならない。

リゲティのアパリシオンとは何か。
豊島の云うアパリシオンとは何だったのか。

生き生きとした、私のものである、唯一のものであるはずの身体は共通の場(=一般通念)でしかなく、自律化した思惟や理念的実体が集合する空間でしかないのだから、それ自体“幽霊たちの身体”(Leib der Gespenster)ではないのか、というわけである。
(デリダ『マルクスの亡霊たち』)

どうもモレキュラーは、《にのいち》に於いて、「自らの形態を乗り越えてしまい」「われわれがいる世界のなかに光として包摂されるような別の世界を我々に与えてはくれない」もの、「他なる存在としての存在の領分なのだが、この存在は、照明された世界をわがものとして把持する自我の自己同一性には転換不可能である」もの、「光の世界を引き裂き、世界のうちに他性と彼方を導き入れる」もの(以上、エマニュエル・レヴィナス『発話と沈黙』より引用)を、ターゲットのひとつとしているようにも思えてくる。

これは「音」(の音性)である。

盲目性は不可能性の接線とも時折交差するが、ジャン=リュック・ナンシー『フクシマの後で 破局・技術・民主主義』に於いて指摘される「非等価性の肯定」は、その「不可能性」の可能性を問うことにも何処かで繋がるのではないか。豊島の云う、みえないもの/みることが叶わないものを察知する「盲力を動きの現働力とする」ことにさえも。

静止した群影のうえに鐘の音がひびいたが
(呼び醒ませ、動け、舞いだしてくれ)
動かない、声もない、鐘の音だけがたかく、耳もとに迫
ってきたと思うと、醒めていったのはおれだ。声をあ
げ、もがき醒めたのはおれだ。

(黒田喜夫『兵士の死』)

更に、豊島は「「に」と「いち」は決して切り離しえない」とも書いているが、「切り離しえない」とは即ち「一体」であることでもあり、一体=一タヒ=死と読み替えることもできよう。

とすれば、〈私〉というひとりの他者に於いて可能なことの不可能性/不可能なことの可能性としての死に言及したレヴィナスと、或いは「死とは現在を欠いた時間であり,私はこの現在を欠いた時間に何の関わりも持っていない」としたブランショと、或いは「私たちは自らを、死に負っている」と綴ったデリダとも「近接」してきはしまいか。妄想は尽きない。

豊島が、陸前・陸中・陸奥・下北を「災厄裂島=コモリク」とするなら、島守もまたコモリクである。

とすれば、本日明日の南郷島守モレキュラー公演に、何を措いてもマニアは馳せ参じなければなるまい。
縮地の法を使って。

コモリク=隠口/隠国の枕詞は泊瀬であり、泊瀬=初瀬=長谷→馳である。初瀬山は死者が向かう地=幽界/異界への扉=「接続詞」でもあることは、最早付言するまでもあるまい。

隠口乃
始瀬山者
色付奴
鐘礼乃雨者
零尓家良思母

(大伴坂上郎女『万葉集』巻八 一五九三)