蹉陀、そして或いは白レ脳裏

蹉陀

当初3.11は、地震と津波に因る「震災」と見做された。
だからこそ、範囲/規模などに係る過去の天災との比較も行われた。
例の如く、本質を弁えぬ意味不明のお涙頂戴ワイドショー的な報道も散見された。
復興への長い道を歩き出すか、とすら思われた。

瓦版に掲載された鯰絵

だが、時間が経つにつれ、様相が変わる。

放射性物質の拡散(継続)に係る「危険」として、少なくとも今後数十年間我々が強制的に背負わされる(た)「負債」として、事実隠蔽/風評/政治機能不全などに伴う「経済的失速」の懸念として、社会/権力構造等を含めこの「国の状況」を醜く露呈させるものとして、漸く認識されつつある「未曾有の事態」「国家的危機」として・・・。

而もこれは現在進行形であり、まだ「始まったばかり」である。
いや、柴野徹夫『原発のある風景』(未来社/1983)を読むまでもなく「既に始まっていた」のだ。

この期に及んで、何故か未だ「非常事態宣言」が出されない。
この期に及んで、醜悪な「隠蔽」「情報戦」が展開される日常がある。

勿論デマ/ガセも渦巻いてはいるが、被災地に入った私から言わせれば、当該情報戦に参画する/戦況を眺めることすら叶わない被災者や「情報弱者」等と「現実」との乖離は、3.11以前よりも拡大しているのだ。
放射性物質拡散(地域)に係る予報然り、汚染水海洋放出の件然り、汚染食料等の摂取の件然り、年間被曝限度量基準値引き上げの件然り、被災地の現状然り。
黒い真綿でじわじわと絞首されている状況は、既に三週間に及ぶ。

また、非常事態宣言が出されないがために、既存の法律・規制等を超える対応、例えば(救援物質山積と報道されているにも関わらず)ヘリからの食料救援物資投下等を行えない、といった状況も見られる。

結果として、被災地は益々被災し、抑止されるどころか被害は拡大傾向にある。

まさに「情報」の意味性/語源=情勢報告を意識せずには居られない状況であり、尚且つ「直ちには安全性に問題ない」「公表すべきだった」等の呆言に接すると、其処に或る卑劣な故意/恣意性も感じざるを得ない。

西谷修一が「アフター・フクシマの情報ブラックボックス」で参照を促した「福島原発に関する報道規制及び言論統制状態まとめ」や「放射能汚染の広がりは隠しきれない ~NO!大震災翼賛会・大連立」などを読むと、情報のみならず、言論/思想統制=「余震」が忍び寄ってくる気配をも感じる想いがする。

2011年4月4日の国内報道より

これを機にとばかりに、意図的とも思える史実の「捩じ曲げ」やドサクサまみれの愚行なども目にするようになり、日本船舶寄港拒否等の問題も含め、この国はいま着実に「孤立」しつつある。
一部の周章狼狽する愚劣無能な為政者によって。

この意味でも、「危機」は、常に既に其処に存在していたのであり、その振幅が極大化傾向にあることを、文字通り直ちに認識し、動かなければなるまい。

閑話休題。
さて、本年1月にモレキュラーシアター演劇公演《のりしろ nori-shiro》が行われたことを、まだ記憶に留めている人もいよう。

下記の「白レ脳裏」と題した妄想文は、3.11以前に書いていたものだ。《のりしろ nori-shiro》についての妄想を綴る途上で3.11に見舞われたため、中断された。

然し乍ら、3.11以前の思考をいまそのまま引き継ぐ/紡ぐことは、最早、私にはできない。今回の事態を踏まえた「思考の地殻/水位変動」を未だ自己において起こすことが出来ないでいるからだ。喫緊の課題である。

よってここでは、震災前に書きかけた妄想文を、そのまま掲示することにする。

白レ脳裏

(1)
かのアポロン=Apollōnをロゴに冠した出光興産傘下の左沢ガソリンスタンドが、「雪で」崩落した。
昭和二十三年、黒田喜夫が初めて入院(国立療養所左沢光風園)した「雪深い地」=左沢でのことだ。

「ガソリンスタンドの屋根が崩落した現場=大江町左沢」/山形新聞Web:2011年02月14日 15:40より引用

左沢/「セラヴィー」より引用

と同時に、エジプトのムバラク政権が「勝利の町」=Miṣr al-Qāhira=カイロにて崩壊した。
その後、各地に連鎖している蜂起雪崩/アバランチは、点から面へ/スラフからスラブへその発生形態を変えつつあるようだ。

と思ったら、米国時間3月3日および4日に、このモレマニやスコマニをホスティングしている米WordPress.comが、同社史上最大規模のDDoS attackを受けて「仮死状態」に陥った。

WordPress stats from techcrunch.com

妄想子宅のネットワークからは、当該攻撃のためにブロックされていたIPを経由する経路でしかWordPress.comにアクセスできなかったため、このブロックが解除された8日まで、管理者としてすらアクセスできない状態が続いていた。

この一連の攻撃は、一部報道によればその大部分が中国からとされているが、いずれにせよWordPress.comのシカゴ、サン・アントニオ、そしてダラスのデータセンタのみならず、周辺のネットワークにも「傷痕を」残したため、回復に時間がかかったようだ。

この攻撃に政治的背景があるにせよないにせよ、まさに「いまここ」にある戦争状態である。

おしまいなんておれたちにはないんだ(黒田喜夫)

(2)
左沢とエジプトでの崩落の丁度一月前、モレキュラーシアター《のりしろ nori-shiro》公演が行われた。

会場は、以前「クイズの聖地」とまで呼ばれた高円寺会館の跡地に建てられた座・高円寺(杉並区立杉並芸術会館)だが、中央線を挟んで反対側には元蚕糸試験場だった蚕糸の森公園が広がる立地であることから、直ちに黒田喜夫の『毒虫飼育』『ウ・ナロード』辺りの連妄想が誘発されたりもする場所だった。抑々甲武鉄道が通された頃は、座・高円寺付近にも桑畑が広がっていたようだ。対する南側=高円寺地名発祥の地方面=桃堂は、文字通り桃の花咲く地であったともいう。

付記すると、座・高円寺隣の駐車場〜隣接する区立第四小学校付近にはかつて鉄池(村田邸の池)と呼ばれた池(呼称由来に池底赤色説あり)があり、環七に沿って南に流れ蚕糸試験場近くで桃園川に注いでいた高円寺川の水源だった(『杉並の川と橋』/杉並区立郷土博物館)という。鉄池には大根洗い場として長年使われた湧水があり、この界隈では「デバ」とも呼ばれていたらしい。桃園川と高円寺川は、いずれも氾濫を繰り返したため暗渠化された。

1950年の桃園川/加瀬竜哉.com「no river, no life」より引用

現在の高円寺川/「暗渠さんぽ」より引用

二本の氾濫する河と池/沼
デジャヴは続く。

《のりしろ nori-shiro》より ⓟMIYAUCHI Akiyoshi ©molecular theatre

虞を捨て仰けから妄想的に断じてみれば、この《のりしろ》は、表象的基板と制度を根本的に問い直し、斜めから見る視線によって新たな問題系を提示しようとしたのではないか。或いは、様々なレヴェルの領有化を巡る衝突/不調和(或いは非衝突/調和)に係るアクチュアルな問題提起と提示によって、脱闘争化/脱政治化に向けた回路構成の動きを強く阻害するものであり、身体と場所/非場所との干渉・共振或いは交換を通じて、内なる潜勢的な力の再起動/再接続を強く要請し、行為と知覚と権力と公共性の問題を黒田喜夫のテクストを用いて現勢的に露呈せしめることによって、弛緩しきった我々の「闘争性」の微かな残り火を焚き付け喚起する出来事=上演だったのではあるまいか。

その意味では、イル/イル、マウスト、バレエ・ビオメハニカのいずれよりも高い境位にあり、モレキュラーのひとつのターニングポイントとなる可能性がある。そう妄想する。

マス・メディアは、真のコンフリクトを偽のコンフリクトに置き換えることによって、ぼくたちをたんなる「観客」の立場に押しやりつつ、日本国内で起きた出来事すらも「対岸の火事」のように提示し続けているのです。

マス・メディアが、すべての政治的な出来事をエリートたちのあいだのコンフリクトという偽の表象のもとに語り伝え、また、それによって、ぼくたちをたんなる「観客」の立場へと押しやろうとすることは、実のところ、当のエリートたちがまさに望んでいることそのものです。(『闘争の最小回路』/廣瀬純/人文書院)

それは「アートとアクティヴィズムのあいだ」でなされている異なったタイプの実践形態を指している。アートの側から見ると、それは先鋭的な作品制作が個人主義化された生産/消費形態と制度化された劇場の殻を打ち破り、それぞれ培ってきたメディウムと技能を全面的に解放し、社会と都市空間の変革に介入し始めることである。これはアートという特権的に閉じていた領域の自己解放である。アクティヴィズムあるいは社会/政治活動の側面から見ると、それはそれらがかねてから暗黙の内にそこに依って立ちながらも意識化してこなかった、あるいは無視してきた人間関係形成(あるいは「情動」)にまつわる戦術の本質性に目覚め、それを全面的に方法化し始めようとする展開である。つまり民衆の社会変革運動の様々な次元における方法的/人間関係的な豊穣化である。この二つの異なった領域の自己変革が、お互いの存在を認知し合い、評価し合い、連帯すること―――ここではこうした異種交配が進行している。(『アートとアクティヴィズムのあいだ―――あるいは新しい抵抗運動の領野について』/高祖岩三郎/以文社『VOL03』)

とはいえ、この《のりしろ》については、思想・文学・演劇・詩などその筋の権威・評論家などのお歴々が詳しい舞台評を書かれる/書かれている(たとえば松本潤一郎による『ソーシャル・ネットワークとソシアリスム図書新聞3003号)ようだし、抑々を以て、批評などモレマニや妄想子の出る幕ではない。

吉増剛造+鵜飼哲+豊島重之+前嵩西一馬によるアフタートークについて、或いはそこで吉増剛造から提示された「ひとりんちゅ」およびそれに応答した豊島の「おひとりさま」等々の問題も同様である。

従って、例によって身勝手極まりない個人的妄想に没入し断片的に記していくが、その前に公演フライヤを見て気になったことに触れておきたい。

それは、この公演が「モレキュラー・シアター」ではなく、「豊島重之+モレキュラー・シアター」(による)と書かれていたことだ。

《のりしろ nori-shiro》フライヤ ©molecular theatre

これは妄想子を驚愕させた。
妄想子の朧気な記憶からすると、「豊島重之+◯◯」と表記されることは(モレキュラー・シアター時代には特に)稀だからだ。

モレキュラー前史時代にはいくつか前例があるが、それらは、後に、ひとつのターニングポイントだったと(周囲から)認識されるような作品/公演だったことが殆どではないか、と思われる。

たとえば、豊島重之+豊島舞踊団のダンスドラマ『DJINBAI(じんばい=命綱)』(1968)、豊島重之+鳥屋部文夫『1/2(いちぱあに)』(1984)並びに『the Funnel Experience』(1985)、豊島重之+劇団アララギ派一/四(いち・ぱあ・よん)』(1985)そしてパフォーマンス・フェスティバル・イン・檜枝岐での豊島重之+モルシアター『パラサイト II』(1986)は、いずれも『f/F パラサイト』によってモレキュラー・シアターとして成立するための重要/必要な過程=プロセスだったと妄想している。

『f/F・パラサイト』フライヤ

これらの存在がなければ、スコピオ・プロジェクト/肉体言語舎の及川廣信との下北沢スーパーマーケットに於ける「遭遇」もその後の交流も生まれ得なかっただろうし、その及川プロデュースによる「f/F・パラサイト」でのモレキュラーの「船出」もなかったかも知れない。ひいては、本《のりしろ》公演に及川の「声」が用いられる機会もなかった筈だ。

もうひとつの驚愕。
それは「平仮名表記」によるタイトルが冠せられたことだ。
公式公演記録によれば、1986年にモル・シアター/モレキュラー・シアターとして進水してから、平仮名表記タイトルの公演は存在しない。

これらの事実からしても、マニアは、《のりしろ》を特に注意深く考える必要があるだろう。

(3)
モレキュラー・シアター演劇公演《のりしろ》の冒頭、黒田喜夫『踊り屋』の朗読音声が流れる。

然し乍ら、妄想子の呆けた脳裏を過ぎったのは、『踊り屋』ではなく次の詩だった。
いや、『踊り屋』とこの『沈默への断章』とが併置され混然と聴こえた、と云うべきかも知れない。


明澄な仮の闘いに死んだあとおれは
もう一度沈黙に抗い
沈黙に生きる
もう一度言葉を信じない
おれは言葉でそれを告げる


おれは叫ぶことで
おれであることはできない
おれを晒すことで叫びをあげようとする
それから比喩の死と言葉を播く
唖者の姿を追い
ことごとくの擬似性の飢えと
勝利を拒むために
残された行為の極に下りてゆく


おれのすべての声と意味は
風とともに支配の縁(へり)を降ってくるのを知る
おれは明澄な仮の闘いに生きて絶える
闘いのまえに潰れたおれの盲目は
絶対から起きる暗黒
沈黙の核はきょうの
死者の口に縛られている

(『沈黙への断章』/黒田喜夫/1966.05初出1978改稿)

仄暗い客席後方から聞こえてくるらしい朗読音声「真昼のひかりと・・・ただよう病蚕の匂い・・・」は、複数の話者=声によって微細にズラされながら反復される。

だが、それは反復或いは並列=「2」というよりも、或る境界線を隔てた別の位相(音響的な意味ではなく)同士による複合/重奏でもあるかのように時折響いた。或る境界線とは、黒田の云う「支配の縁」でもあったのかも知れない。

ズラされるのは言葉だけではなく、途中で不意に話者=聲も置換/転移され、またズラされる。

土間の闇から
虫か人かわからない声がきこえる
(『ウ・ナロード』/黒田喜夫)

そう、《のりしろ》会場で聴こえた声は、抑、誰の声だったのか。
人間の声であったのかどうかすら覚束ない。
死者の声であるかも知れず、葦や蛇や尺取虫や山椒魚の声であったのかも知れないのだ。

録音された朗読が再生されるのみならず、その場で出演者が発する朗読も聴かれた。録音された「自分の」声を聴き、その場で発する「自分の」声が会場に拡声される状況をもまた耳にする出演者=聲は、どのように声・音声を聴き、どのように声・音声を発していたのだろうか。

自分の声は喉で聞くんだ(アンドレ・マルロー)

ヘーゲルが「動物の発する空虚な声はそれ自体として無限に限定された意味を獲得する。」「あらゆる動物は暴力的な死に直面すると声を発し、自らを廃棄された自己として表出する。声のなかで意味は自らの内部へ立ち戻る。それは否定的な自己、欲求である。それは欠乏、それ自身のうちにおける実態の喪失である。」(『イェーナ時代の実存哲学』)と書き、アガンベンがこれを受けて

動物の声は死の声にほかならないのである。(中略)死の声(ならびに記憶)とはつぎのこと、すなわち、その声は死が生者を死者として保存し記憶しようとしたものであり、それと同時に、そのまま死の痕跡ならびに記憶でもある、つまりは純粋の否定性でもあるということを意味している。

動物の声は本当をいえば「空虚な」ものではなくて(さきに引いたヘーゲルのくだりでは、「空虚な」とは「限定された意味内容を欠いている」ということを意味しているにすぎない)、動物の死を含みもっているからこそ、この声の純粋の音(母音)を分節し停止させるーーーそれゆえ、この死の声を分節し保存するーーー人間の言葉は意識の声、意味を表示する言葉に転化しうるのである。(中略)

人間の言葉は、この「消え失せていく痕跡」を分節したもの、すなわち、それを停止させ保存したものであるかぎりで、動物の声の墓場にほかならない。人間の言葉は動物の声のもっとも本来的な本質、すなわち「もっとも恐るべきもの」、つまりは「死者」を守護し、しっかりと固定しておくのである。

このために、意味を表示する言葉は、真の意味において、死を「運んでおり」、死のなかで「維持されている」、「精神の生」そのものにほかならない。(『言葉と死 否定星の場所にかんするゼミナール』/ジョルジョ・アガンベン/筑摩書房)

と書いたことが「真昼のひかりと・・・ただよう病んだ蚕の匂い・・・」で始まる聲から想起され、地名・記憶・写真を巡る、より深い妄想へと誘われていく。動物の声の墓場にほかならない人間の言葉、しかし録音され振動体を通じて電気的に拡声された音響として聴かれる言葉は、果たして人間の言葉なのか。

正体不明の声による二重のズレと断続的に相互に干渉しあう音像とによって聴覚の閾値=スレッショルドレベルが下げられ、聴感が研ぎ澄まされるとともに、次第に朗読音声の聞こえない時点=合間=音声の「漏れ間」に、別の聲が聞こえ/漏れ始める。

ふと見ると、舞台上には口を半開きにした死者たちが、光る方形の上で引き攣ったような微振動をしながら蠢いているではないか。

彼らは、「常に遠景から近づいてきてしかし常に頭上を通り過ぎる殉教者」たちだったのかも知れない。だが、通り過ぎるわけでもなく後に虚妄な/虚妄と化した言葉を落としてもいないことから、殉教者ではなく或いは「死を拒み 拒むきわみの絶息に下りた者」(『断声』)だったのか。

肢下の光る方形=底穴が、陸続と折り重なる死者たち或いは「一人の底の一人の底の悶絶の民衆性(『至近への旅』)」に通じているとすれば、「あんにや」のように見えざる者になるために見えるところ=上方へ登ろうとはしていないこれらの仮/既死者たちは、まさに「深く暗い穴」の「底」そのものであり、全員が同じ声で同時に話しているかのようにも視える/聴こえる言葉=朗読音声は、まさに「沈黙の核はきょうの/死者の口に縛られている」状況であるかのように見えた。

《のりしろ nori-shiro》より ⓟMIYAUCHI Akiyoshi ©molecular theatre

時間差を伴った機械操作=再生ボタンの押下により、二台の再生装置が時間差=ディレイを伴って半反復しながら再生していく。一台目の音声再生が始まり二台目の音声再生が追随する始めのうちはそれは先行音声の反響=ディレイあるいはエコーのようにも聴こえるが、すぐに二つの音声が絡み合い溶解し合いながらひとつの流体を構成するかのよう内部残響を伴って流れ/漏れ出し、一台目の音声のひとつのパートが終わり二台目の音声のみが響く一瞬の反響状態を経て次の音声再生が一台目から開始され、また明晰な半混沌とでも言うような状態が続く。

これらに晒され浸され続けていると、或る種の大きな「連続性」の中に陥っているかのような幻視が視えてくる。つまり、別の時間軸で駆動する二台の再生装置=「遅延装置」による、細切れの朗読音声の、時間差を伴った並列再生の繰り返し=反復作用によって構成されていくひとつの「連続性」だ。

連続性が喪をもたらして=喪に服している。それは、そのひそかな構造(中断・分離・反復・残存)によって喪をもたらす。連続性は、自らのテーマ、あるいはこう言ったほうがよければ、イメージ内容をなす死の形象のかなたに、自らの喪をもたらしているのだ。
(『留まれ、アテネ』/ジャック・デリダ/みすず書房)

まさにあれは、「自らの喪をもたらして」いる状況であったのか。

喪に服すかのように薄闇の中で蠢く仮/既死者たち=出演者の眼前/背後には、縦長方形の白い光面が中空に浮かんでいた。
また幻視が襲う。

ここ、シャティーラの廃墟にはもう何もない。老女たちは口をきかず、白雑巾を打ちつけた戸の影にすぐ姿を消してしまう。(『シャティーラの四時間』/ジャン・ジュネ)

こうして《のりしろ》は「起動」された。

(4)
かつて、豊島が「「名=nom/ノン」としての上演、「数=nombre/ノンブル」としての上演」と言及している(『演劇のアポトージス 第一章』)以上、《のりしろ》においても「ノン/ノンブル」に意を注がざるを得ない。

また、

言い換えれば「n-1」で書くこと。それを方法と呼ぶ。
こうして、方は「2」として作動する。それは「2」であることによって、全ゆる次元に閃光のような亀裂を走らせ、「2」を刻印していくのである。
「n-1」の1とは何か。言うまでもなく、それは正負の符号を縦横に張り巡らされた「法」を意味する。「1」とは文字通り、一人で書くことを吊り支えている統辞法、いわば内在と超越のシンタックスのことなのだ。
要するに主体性、それが差し引かれた中空にこそ「方-法」は作動する。そして、マイナスとハイフンの段違い平行棒めいた「主体制」の舳先を問うのだ。

とも書いている(『方法主義宣言04』)以上、「2」に想いを巡らせ、主体性が差し引かれた中空を呆けた眼で凝視せざるを得ない。この場合、「何がnか」「◯がnだとすれば〜云々」といった方向での探求は専門家に任せるとしても、何故豊島が上記の考えに至ったかを思えば、既存の制度(化)に抗する気の遠くなるような「戦意」と報いられない「徒労」とを想わずにはいられまい。

「「11」というノンブルと「el-even」というノンに、イーヴンの否認がイレヴンだという「名指し=デノミネート」にずっと拘泥してきた」(『演劇のアポトージス 第一章』)豊島であるからには、この《のりしろ》という言葉も、文字面通りそのまま素直には受容できない。

当然ながら、この「ノン」には「オン」も含意されている、と考えるべきだろう。これらの思考プロセスには、否定性/否定・性/否定・生だけでなく、近似性や類縁性や時間性といったオンが有する諸問題も介在してくる、と妄想するからだ。

まさに、露口啓二の「ON_沙流川」の如く。

露口啓二

露口は、「「視覚を微かにでも離れる写真」などということが自家撞着であることを承知」の上で「ONは沙流川という場所のそれぞれの固有のオンをさぐり、その場所のオンとその場所のシャシンとを接近させたいと思った」(『Blinks of Blots and Blanks / ICANOF2009』)或いは「地層や岩石のきしみ、水や大気の流れ、植物の静かな躍動、小動物のうごめきや鳴き声などから発するかすかな音に感応する写真/大地や大気の温度、湿度、光の拡散などに触覚的に感応する写真/あたかも小動物の視線に沿ったかのような写真/聞くことで一瞬見ることを中断し、盲目の状態で見る(写す)写真」(露口啓二Webより引用)と書いた。

だが、豊島の『演劇のアポトージス 第四章』として謀らずも公開されてしまった露口と及川の「交信」を読むと、「写真家の身体性」から「写真それ自体の身体性」へと話が展開される過程において、「オン」それ自体も揺らめき軋み蠢いていく妄想に駆られると同時に、オンの歪み・軋みから漏れ出すもの=「オンのオン」へと思考が走るのを感じる。露口の写真自体に対しても、そこに滲み出している「オンのオン」を嗅ぎ取り、引き出し、聞き取る作業がまず求められるのではないだろうか。オンとオトについては、後でまた妄想することとする。

蠢くといえば、この「ON_沙流川」というタイトル自体も蠢いている。
というのは、露口の手によるサイトに於いてですら、「ON_沙流川」と「ON -沙流川-」という二つのタイトルが存在するのだ。
まさにモレキュラーの「f/F パラサイト」と「f/F・パラサイト」の如く。

あらゆる写真は実際、喪ったもの、つまり死者を保持せねばならず、各固有名の喪の体験を通過しているのではなかろうか。それぞれの指示対象のいまここの、日付の、抗いがたい固有性による体験。それゆえ写真が示すものとの関係、関わり、くびき、その固有の視界を構成する領域の体験を。したがって逆説的なことだが、換喩的な置換を止めることは不可能になるだろう。固有名のみが存在するにもかかわらず、換喩的であるのだ。それこそが、写真というものだ。(『留まれ、アテネ』/ジャック・デリダ/みすず書房)

こうなると、《のりしろ》というタイトルも、nori-shiro=「nor-ish-il-o」=「地域・所属・傾向・性質、あるいは間違った/病んだ口の、いずれでもない」というほどの含意でもあるのではないかと、つい妄想したくなるところだ。

ところでタイトルと言えば、ここでは「のりしろ」という平仮名表記と「nori-shiro」という英文字表記が併置されている。
ここに見られる表記の違い・揺れ或いは「不一致」の意味は何だろうか。

だが「nori-shiro」と併記されている訳だから、「のり-しろ」とも云い/読み得る筈だ。
つまり、日本語の表題《のりしろ》には、「不可視の-」が内包されていることになる。
この「」とは何か。

もしかすると、それは、上述した「異なる位相を隔てる境界線」或いはこの作品の其処彼処に豊島が仕込んだ境界線、または境界線同士を繋ぐ盲面それ自体であるのかも知れない。ひとつの反復単位=「音声A」+「-」+「音声A’」に於いては、音声A=のり、音声A’=しろ、なのだろうか。途中で話者=聲が交換/転移されることは、どう考えるべきか。

或いは、盲面/光面であるだけでなく、「界面」、もしくは「ー」が選択的透過性・電気的興奮・免疫特性の発現などの機能を有する細胞膜(装置)/浸透膜(装置)であるとでもいうのか。或いは、「のりーしろ」が実は「のり引くしろ」だとしたどうなるか。

斯様に、タイトルひとつとって見ても妄想のネタがギッシリと詰まっているのは、モレキュラーならではである。

(5)
と或る幻視の風景。

Is it a Linden tree?/amoderndandy氏のブログ「Because I'm pretentious like that!」より引用

はじめ16の死体が吊るされていた。
死体=縊死体/縊殺体は、しかし一度地に降ろされ、「再度」逆さに吊り下げられていた。手は躰に縛り付けられていた。
各々の死体の首は、死後硬直で縊死時の角度に折り曲がったまま微かに揺れ、その口には外気が幽かに共鳴する。
其処は深く暗い地で、鬱蒼とした深森の中ではなく地割れによって沈下した狭域であり、両側に崖が屹立して縊死体の連なる空域を挟撃していた。
目が慣れてくると、死体の群れのその奥に、さらに奥の縁があるのが判る。
其処はまさに「端」=8の地だった。

銃殺の後、逆さ吊りにされたムッソリーニ

と、8の地に死者たちの姿が浮かび上がる。
彼らは、ゆっくりとしかしほぼ同時に左回り=反時計回りに縊死体の方を振り向く。
端=8の地勢/知性、或いは生/性を反転させるのか。
しかし、8は反転しても8であり、後に8は傾転され、無限遠=∞との間を往還する。

counterclockwise

(6)
しろ=46=24。或いは16或いは屍蝋或いはレタル。
し=シネプ或いはし=之。
16の屍蝋/遺体。

糊するものとくれば口だ。
つまり、24の口。

縊死体と見えたのは、逆さ吊りにされたマイクスタンドであり、頭部に当たる先端にはマイクロフォンが固定されケーブルが接続されていた。然し乍ら、マイクロフォンから黒田喜夫の『除名』『モノローグ』の朗読音声が発せられていることが判る。

つまり、ここでマイクロフォンは、一般的な「収音」という用途に使われるのではなく「誤用」され、(録音された)「聲を発する」もの=発音体として、つまり「聞く/聞かれる口」と化していたことになる。或いは「話す/話される耳」であるのかも知れない。耳=ミ・ミ=「身体の中の(上の)身体」であることを想起すれば、ここにも豊島の含意が感じられるところだ。

とすれば、16の地で、「中空から下方に」向かって「ミのミ」から放射される「コエ」とは?
「ミのミ」の音=オンとは?

茸は茸自身音を出すかどうか。
或る種の茸の菌褶は、適当に小さな羽をもつ昆虫がそれをピッチカートするのに使えるかどうか。(『音楽愛好家の野外採集の友』/ジョン・ケージ/1954)

またハエの羽音が響いてきた。

2009.08.17歌舞伎町の蠅/ⓟ妄想子

ここで大急ぎで思い出しておきたい。

まず、コエ=「聲」という会意文字が、元々「声殳」+「耳」であったこと・「声殳」が「磬」=吊るした石(の楽器)を殴ち鳴らすことであり、耳に聴こえるその鳴る音を聲=セイといい「おと、ひびき」の意味となったこと・「磬」は神を呼ぶための楽器であったこと・後に人の「こえ」の意味に用いるようになったこと。

次に、聽=チョウが「耳」+「壬(テイ)」+「徳」であり、壬はつま先立ちをする人を横から見た形であること・聴=「耳」+「目」+「心」からなる会意文字であること、ここで聞くのは神の声/啓示/お告げであったこと(『常用字解』/白川静)等々。

つまり、聲とは、抑々「吊るした石の音」=「中空で発生する音」であり、聴とはそれを聞く姿勢を表していたのだ。
吊るした石が吊るされた縊死(体)と交錯する。

同様に急いで思い出すべきなのは、マイクロフォンがmicro-phone=小さな音を「出す」(伝える)もの、という語源(ギリシア語)を持つことだ。
マイクロフォンは語源からして「音を出すもの」なのである。

よって装置性という観点からすれば、豊島は、誤用というより、本来の語意=意味性を「素直に」引き出してみせたことになる。

では、コエはどこにあるのか。
コエ=オト=オンを、「いま・ここで」聞くことはできない。
オトは発生した瞬間に、人が音(聞いた)と認知する前に消失し、その姿を現すことはない。
音楽も同様だが、コエ・オトの出処のみならず「音楽」の来訪は、その聴取中に「忘却され」てしまうために、その明確な水源地を知ることはない。

もしも、息=音であり、息で打つこと=歌であるとしたら、《のりしろ》で聴かれた息音/無声音/有声音による朗読音声は、ある意味「音楽的」な要素をも併せ持つと言えよう。「息で打た」れるたびに、空間=場や時間・・・が新たに伐り出され、打ち直され、その意味の消失に打ちのめされる。言葉の前の沈默=喪失=「喪」から始まり、残された空間=隙間の中のさらに微かな漏れ間が、切れ切れになった/重なりあって有機的に変容した言葉の響き=囁きが震え、掠れ、蹌踉めき、躓きながら満たされていく様子=「喪の腹/複/覆/払」を覚えた瞬間、時を同じくして、豊島の仕掛けた「視/聴」に係る問題提起=「罠」のひとつにも気付かされることになる。

聴くことは、この意味の消失を再発見することです。
音楽を聴くことは、この放棄の要求を創出することです。(デュサパン下掲書より)

音楽を創造すること、作曲することは、ひとつのフォルムを構成することです。フォルム化することは、ふちを発明することです。しかし「フォルム」ということばの意味を誤解してはいけません。フォルムとはまずコンセプトです。(中略)このフォルムということばは、わたしにとっては「(鉤括弧つきの)フォルム」を意味します。ここでは、もはや時間的構造だけではなく、空間的構造が問題になるのです。つまり音楽をイメージしながら、わたしはフォルムを見ているのです。視覚と内面的な耳とのあいだの置換に慣れ親しむほど、フォルムを「聞いている」とあえて明言することができるでしょう。わたしの音楽の発明は、ラインやマス、アングル、渦、ブロック、ヴォリューム・・・の組み合わさった抽象的図形を描くダンスをイメージし、とても柔軟な幾何学的フォルム形成の精神的フィルターを通ったようなものです。この内部的ムーヴマンは、疑いもなく空想的エッセンスを発散させ、しかし、まず最初に、シンフォニー・オーケストラの個々の楽器の遠回しな表現によって、音響的フォルムのなかで現実化します。(中略)書かれた音楽が奇妙なパラドックスにとどまっていることを、けっして忘れないようにしましょう。(中略)わたしの仕事の「本体」はペーパーです。そして、エクリチュールのこの奇妙な転移によって、わたしの企図を、音の無形世界にむけて転写することができるのです。(コレージュ・ド・フランス講義録より『COMPOSER : Musique, paradoxe, flux』/Pascal DUSAPIN/邦訳「音楽のパラドックス」/富山ゆりえ訳/パンオフィス2008)

上で「音楽的」という表記を用いたが、これは「音楽」とは異なるものだ。
演出や進行表(の作成)も所謂「作曲」と異なることも、付言するまでもない。

ここで触れているのは「聴くこと」による/を前提したひとつの仕掛けだが、作曲(というプロセス)は、聴くことでも時間を秩序化することでもなく、更には「時間によって」ですらなく、まずは「時間に沿って」事物・事象を配置/再配置・・・していくことだからだ。これらの行為とその結果としてのエクリチュールが「手がかり」のひとつではあっても「音楽」とは異なることも、今更言うまでもあるまい。

今回の《のりしろ》の体験を通じて、改めて、時間(性)について考える機会を得た。哲学的時間と演劇的時間と・・・と音楽的時間とが全く異質なものであること、時間の構造化ではなく構造化による時間の生成および「空間的時間/時間的空間」或いは「視覚的聴覚/聴覚的視覚」といったものをもしも想定しうるなら・・・と妄想することもできた。勿論、身体的時間についても。

ところで、縊死体がぶら下がる中空=コエが発せられる虚空とは、豊島の言う「「方-法」が作動する主体性が差し引かれた中空」なのだろうか。「方-法」の「法」=のりでもあるから、ここには垂直方向に於ける境界線「-」が引かれているのかも知れない。
或いは、「ー」は何らかの「流れ」=交通のようなものか。

流という文字が、水+㐬=トツの組み合わせであり、㐬が頭髪の乱れた子を逆さまにした形、つまり幼児が水に流されている形、或いは出産、或いは水屍人であることを想えば、この方から法への/法から方への流れ、或いはのりからしろへの/しろからのりへの流れとは、何か慄然とするような事態であることが朧気に見えてくる。

同じ仕掛けは、前々作『マウスト』でも用いられた。
インスタレーション=「装置」としてだけ見れば、『HO Primer』(2004)でも用いられた。

『マウスト mouthed』より ©molecular theatre

2009年12月の『マウスト』においては、《のりしろ》のように整然と二列でマイクスタンドが吊るされたのではなく、舞台エリアを取り巻く客席前列上空に位置するように、つまり舞台エリアを「外部」への指向性を持って取り囲むようなかたちで設置されたが、マイク間の距離が不均一に近接していたこと及び再生方法、並びに再生される朗読音声自体の音響的構造が《のりしろ》とは異なることもあって、今回のような重層的干渉などの事象は感得されなかった。マウストにおける音響については、及川氏も当時コメントを残している。

いずれにしても、《のりしろ》では、今までのモレキュラー作品より強く「コエ/ハエ」の問題が浮上させられた、と言えよう。
のみならず、ミのミ、オンのオン、そして「ミのミ」に於ける「オンのオン」も。

ハエと言えば、モレキュラーがここ数年関わりを顕にしてきたジュネの『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』に、次の一節があることを思い出す。

見えない素描がそこにあることが暗に了解されているような白、それでこそ空間の感覚は獲得される。この空間を、ほとんど測量可能にするほどの力とともに。

優雅なのは描かれた線ではなく、そのなかに含まれた白い空間である。みちたりているのは線ではなく、白なのだ。(『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』/鵜飼哲訳)

これに関して、月刊「ユリイカ」の2011年1月号で宇野邦一が、

この白い空間は、同時に「死者たちの住む太古の夜」である。これは近づきがたい空間であり、慎重に近づくべき空間であり、近づかなくとも、すぐそこに、あるいは背後にある空間である。そういう遠近法に対応する時間のかたちを再発見しなくてはならないのだろう。ダンサーと俳優のからだは、ときどき白い空間に、ジャコメッティの犬や歩く人のように象形文字を描く。これもあくまで問いとしてである。

と書いたことも、記憶に新しいだけでなく《のりしろ》の舞台とも呼応してくるようだ。

ならば、ジュネが『演劇』で書いた、演劇に固有の時間が経験され得る最も固有的で有り得る場所=墓地であり、死/死者の間近に場所を持つ演劇という下りについても、再度、何度でも考えねばならないだろう。上で引用したデリダの云う「」の問題についても同様である。

ここには、豊島もかつて指摘した周縁化/領有化の問題も姿を現してくることを、忘れてはならない。

(7)
それにしても、なぜ8なのか?

8からは、豊島の「カフカの「事実-観察」の書法。ヴィトキェーヴィチの定款の書法。ルーセルの推敲の書法。ベンヤミンの脚註の書法。そしてべケットの「5・9・5・6・4・6・7・7」や「6・6・6・5・6・5・7・7・7」、即ち畸型連歌とも散文的連句とも、ただの中間数の散逸ともつかぬ「散数」の書法。」(『方法主義宣言 04』)で書かれるところのベケットの書法の要素数=8も想起される。

マニアなら直ちに豊島の『八戸の「ハ演劇」=コロニアル演劇をめぐって』を想起するかもしれない。
そう、豊島にとって「8=八=ハ=は」でもあるのだ。

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或いは、豊島が引用した及川廣信のテクスト「背面の仙骨の8つの窪みに易経の八卦の仕組みが籠められていて、それがひとつは背骨を遡って掌と指に通じている」における「8」もまた去来してくる。

8=八は古代日本における聖数だが、西洋では逆に不吉な数字とされるらしい。また、言祝ぎ・尊敬の意(八咫鏡・八尺瓊勾玉・八咫烏、八重垣、八重桜、八幡、八百万神、八百八町・・・)であり、凶・爪弾きの謂(嘘八百・八方破=やけくそ・村八分・八百長・八裂き・・・)でもある。
つまり「両義的」なのだ。
元々「左右にものが分かれる形」(『常用字解』)であることからも、これは了解できる。

戸田亜里が『狼擬』(アテネ書房/1991)で指摘するように、ドイツ語でも同様である。
acht=ア「ハ」ト=八。achtung=尊敬(する)・敬意(を表す)。acht=追放・放逐。achten=追放する・仲間はずれにする。

追放される先とは勿論8=「(の方)に」であり、それは8=「」でもある。

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モレキュラーの本拠地八戸を、豊島は「深い津軽と盛岡に反して雪がパッタリとなくなる空域、かつ、津軽弁とも盛岡弁とも異なる八戸弁という独特なアクセンチュエーションの「dialect area」」(『八戸の「ハ」演劇』)と書いたが、狭間=ハ・ザマとして挟撃される両義的な地=八戸=「皿沼」も、この舞台には含意されているに相違ない。

昨年出版された『飢餓の木2010』と同様、右からも左からも入ることができ中心で終わる非直線的な舞台=8の地。90年代初頭、豊島は非直線をイル・リニアと称していたが、これは「入る・リニア」でもあって、直線及び放射自体に立ち向かう線をも含意していよう。

事程左様に、立方数でありかつ「2」の累乗数でもある「8」については、妄想し続けねばならぬ運命にあるようだ。

しろ=何も書き入れてないこと。また、そこに何も印刷してないこと/何かをするための部分や場所/代わりをするもの/田地の面積を測るのに用いた単位。1段の50分の1。依代。苗代。
のり=の裏=(しろ)の裏=シロの底。
のり=距/尺度/法/斜面の傾斜/血。
のり=動詞「の(宣)る」の連用形が名詞化したもので、神仏・天皇の宣告の意。
のり=勅/祝詞=イノンノハウ。

観客はシロ=無罪/埒外であることがさも自明であるかのように「(観劇時の)普段通りに」客席=「しろ」の席に座っていると、それまで縦長方形スクリーンに照射されていた光=強烈なサーチライトを「のり」から向けられ、いきなり己の立ち位置が宙吊りにされたことを知ることになる。シロであってなおシロに。シロの上のシロに。これは、冒頭でも触れた「向「脱闘争化/脱政治化」回路」形成の「阻害」への一歩となる。

サーチライトを照射した者は誰か?
サーチライトを照射された者とは何者か?

この公演において、出演者は初め「のり」から「しろ」へ、そして「しろ」から「のり」へと移動を繰り返す。
移動できる=「のり」と「しろ」を隔てる「」が架橋されているのだ。つまり《nori-shiro》の「」が。

移動=8の地から16の地に死者/仮死者たちが「滲潤」しようとする時に、8の地から眩い白光が照射され、光の中で死者/仮死者たちは別の存在にでも羽化するかのように重なりあって頭部を蠢かせていた。光を遮ろうとするというより、光の中に己の残像を刻印でもするかのように。

その時ぱっと
白熱のライトが点けられた・・・・

(『遠くから襲う幻』/黒田喜夫)

《のりしろ nori-shiro》より ⓟMIYAUCHI Akiyoshi ©molecular theatre

均等に設置された8枚のELシートは、演出プランに沿って、都度オン/オフされる。
このオン/オフは、所謂舞台芸術に於けるタイミング或いは装置としてのみならず、領有化と非領有化、領域化と非領域化の問題をも提示する(ための)操作だったのではないか。

ELシートのオンオフ=1または0=1ビット。
8枚=8ビット=1バイト=情報の基本単位。
8=八個の方形=口の光。
八口光=ハロー=後光?
光?

8の地は、8個の方形が設置されている/位置しているのではなく、8個の方形によって逆に「分界」されていたのかも知れない。
8個の方形が「のりしろ」であるかも知れず、8個の方形以外が「のりしろ」であるかも知れぬ。

分界=境をなす=divideを辿れば、divine=神に繋がる。divineを更に辿れば、サンスクリット語のdeve=暖光、そして印欧祖語ではdeiwosに繋がるらしい。言うまでもなく、deiwosは古代ギリシア語のZeus/ラテン語のDeusの語源である。

Main articles: Dyeus and God (word)
The word “deity” derives from the Latin “dea”, (“goddess”), and ‘”deus”, (“god”), and other Indo-European roots such as from the Sanskrit “deva”, (“god”), “devi”, (“goddess”), “divya”, (“transcendental”, “spiritual”). Related are words for “sky”: the Latin “dies” (“day”) and “divum” (“open sky”), and the Sanskrit “div,” “diu” (“sky,” “day,” “shine”). Also related are “divine” and “divinity,” from the Latin “divinus,” from “divus.” Khoda (Persian: خدا ) translates to God from Persian.

The English word “God” comes from Anglo-Saxon, and similar words are found in many Germanic languages (e.g. the German “Gott” — “God”). (wikipedia)

法・勅に於ける光による分界・・・。

どうも《のりしろ》には、今までとは戦略を異にする、いや今までは敢えて露呈させてこなかった豊島の演出企図の「底」もまた明滅しているようだ。

(8)
モレキュラーには、上述のカフカ、ヴィトカッツィ、ルーセル、ベンヤミン、ベケット、或いは最近のジュネ、メイエルホリドら以外にも深い関係のある作家がいることも想起すべきだろう。豊島自身のテクストや『HO-KORIの培養』などから容易に認められるように、デュシャンである。

とすると・・・

8枚のELシートも縊死体/縊殺体のマイクロフォンも、言わば「電気仕掛」である。
電気?

電気を横にして

「あらゆる芸術」において電気の唯一可能な利用法。

・・・が与えられたとせよ。そして私が大いに苦しんでいると仮定するならば・・・

見ること
見るのをながめることはできる。それに対して
聞くのを聞くことはできない。

(『一九一四年のボックス』/デュシャン/北山研二訳)

聞くのを聞くことはできない。
しかし「話す口」からではなく「聞く/聞かれる口」あるいは「話す/話される耳」=「誤用/適用されたマイクロフォン」から聞くことはどうか。そのミミ=ミのミから発せられるコエ=オンは誰のものか。

これらの電気仕掛を駆動するには、当然ながら操作人が必要だ。
操作人?

一枚の笑いを誘うタブローのための一般的なノート

棺の主導者(往復台の繰り言)
出資されたシンメトリーの原理(操作人と縊死体の動きへのその適用。雌の縊死体を見よ)。

(『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』/デュシャン/北山研二訳)

操作人・縊死体・シンメトリー。
操作人と8人の死者とシンメトリカルな空間構成。
8の地の死者たちは、顎の線から下のエリアを暗闇に浮かび上がらせ、かつ吊り下がった16の縊死体/縊殺体よろしく、ELシート上で反転=倒立してみせたではないか。

《のりしろ nori-shiro》より ⓟMIYAUCHI Akiyoshi ©molecular theatre

モレキュラーにおいて、ELシートは『BBB-1/2』(2009)公演から用いられた。

bbb1 ⓟ妄想子

2枚の方形。これが『マウスト』では増殖した。
方形?

2007年の『バレエ・ビオメハニカ』に際し、「マレーヴィチ「シュプレマティズム」の、とくに「白の中の(上の)白(い正方形)」を私達は参照しています。具体的には三面が白亜のギャラリーを想定しています。」とモレキュラー自身によって書かれていたことが、楔のように脳裏に突き刺さるのを感じる。『バレエ・ビオメハニカ』から『イル/イル』においては、白い方形が三面の壁に投影された。

"ILLUMIOLE ILLUCIOLE" ©molecuar theatre

とすれば、『イル・イル』から『マウスト』に相転移=パサージュする際に、白い方形は、「内」と「外」を隔てる壁面から「底」と「底の底」を接続する床面へ、垂直面から水平面へ、そして眼から口へと写像/逆写像されたのだろうか。

或いは、白い方形=白の(中/上の)白によって「壁」が破砕され、内部性と外部性の問題を「中空」に漂わせたまま宙吊りにして見せたのか。

バグダッドの壁/nytimes.comより

バグダッドに於いて「我々のベルリンの壁」「牢獄にいるようだ」と住民に呼ばれた壁、米軍が自らのセキュリティのために構築した、しかし地域経済や共同体を破断していた壁が撤去され始めたことが、頭を交錯する。

何かを芸術としてみること―――それが《キリスト降架》であれ、《白の上の白の正方形》であれ―――は、そこに同時に二つのものを見ることを意味します。同時に二つのものを見るということは、だまし絵や特殊効果の問題ではなく、形態を展示する表面と言葉を刻印する表面のあいだの関係の問題です。しかし、この記号と形態の新たな結び目―――それは批評と呼ばれ、芸術の自律性の宣言と同時に生まれます―――は、剥き出しの諸形態に意味を付け加える事後性の言説という単純なかたちで作用するのではなく、まず新しい可視性を構成することに取り組みます。新しい絵画とは、別の仕方で見るように訓練されたまなざし、表象の表面上で、絵画的なものが表象のもとに出現するのを見るように訓練されたまなざしに映じる絵画のことです。現象学の伝統とドゥルーズの哲学はとかく、表象のもとに現前を引き起こすという努めを芸術に与えます。しかし、現前とは、表象の意味作用に対置されるような、剥き出しの絵画的事物ではありません。現前と表象は、言葉と形態の二つの編み方の体制なのです。現前の諸々の「無媒介性」から成る可視性の体制は、その布置をやはり言葉の媒介によって定められるのです。(『イメージの運命』ジャック・ランシエール p105-106)

ランシエールを引くまでもなく、どうしても可視性/不可視性の体制・制度と言語による媒介の問題、そして豊島に「翻訳」(その可能性/不可能性の問題、翻訳の残余/残余の翻訳の問題も含め)された黒田喜夫の思考とが、浸々と水位を上げて迫ってくる皮膚感覚を覚える。

水位を上げて迫り来る黒田喜夫と言えば、次のテクストは妄想子が熱気渦巻くサウナの中で読んでいたものだが、『死にいたる飢餓』の解説文か、と思わす妄想したので紹介しておく。

プロレタリアートを例にとろう。もちろん、労働者階級は資本主義社会ではさまざまな意味で「可視」の存在である(市場で自らの労働力を自由に売れる者として、暴徒化しかねない大衆として、資本主義経営者に忠実で規律ある従業員として、など)。それでも、こうした可視モードのいずれも、資本主義世界の「器官なき部位」というプロレタリアートの症候的立場を表わしてはいない。それゆえにパディウの不可視性は、ヘゲモニー思想空間において可視性と表裏をなし、見えるものを見えるようにするため、見えない状態にとどまらねばならない。あるいは、もっと旧式の表現でこう言ってもいい。フーコー派の手法でつかめないのは、ヤヌス的なふたつの顔をもつ症候の要素だ。ひとつは状況の境界線上のアクシデント、もうひとつは同じ状況の真実(を表わすもの)である。

同様に「排除されたもの」はもちろん可視であるが、皮肉にも、排除された状態こそが包摂モードであるという意味で可視なのだ。つまりそれらが社会的身体に占める「正当な場所」は(公的領域からの)排除ということだ。

「はじめは悲劇として、二度めは笑劇として」(スラヴォイ・ジジェク/栗原百代訳/筑摩書房「ポストモダンの共産主義」)

さて、デュシャンに戻ろう。

8=2^3=4・4=3・1・4=死者(下手)・シュレッダ(中央)・死者(上手)
8つ?

雄特有の鋳型 [雄特有なものとしての(?)]

エロスの母型とは、空洞の(空洞状に固定されたー表示された)八つの制服またはお仕着せの全体を意味する。それらは、照明用ガスに
八つの雄特有の形(憲兵、胸甲騎兵、等々)を与えるべく定められている。

八つの雄特有の形のそれぞれ(それぞれの形)は、共通の水平面、つまりそれらをセックス点で切断するセックス面
の上下に設定される。
あるいは
八つの雄特有の形のそれぞれは、セックス点という点で一つの(le)想像上の水平面によって切断される。
すべての排出面までの照明用ガスの発展(改良)(続き)。

(『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』/デュシャン/北山研二訳)

何もないステージ=空洞に固定された8つの仕込まれた正方形=口。
飢餓穴から上方を覗う排出面までの照明。

豊島はこうも書いた。

『マウスト』では「きくことのベッド=聴床」に足のウラをめり込ませる、8の字状=クラインポット状に沈み込ませる。「復唱する口」との接面に落下する身体、直下型の「口状の身体」となって。(「演劇のアポトージス 第四章」)

8の字状のクラインポット?

クラインポット=クラインの壺とは、Wikipediaによれば「境界も表裏の区別も持たない(2次元)曲面の一種。(中略)ちなみに、この通称は翻訳の際の勘違いによるものである。原語であるドイツ語では「Kleinsche Fläche(クラインの面)」。英語に翻訳される際、Fläche(面)がFlasche(瓶)と取り違えられ、bottleと訳された。」とのことだから、クライン面は豊島の言う「盲面/光面」とも関係がある。言わずもがなラカンとも。

またしても「8」である。
とすれば、「16」もまた。

端=恥=巴=8/octaの地がもし「のり」だとしたら、代=屍蝋=白=16/sedecimの地が「しろ」となるのか。

16からは十六島(うっぷるい)も妄想される。しかも島根県の十六島は、海苔=のりの名産地でもある。《のりしろ》に於いては、「のりーしろ」=「しろーのり」/「n-1」=「1-n」なのか。

十六島

またしても、妄想=ビョーキ(死語)が暴走しはじめる。

(9)
ダンス。
第二の/もうひとつの顔。

顎を反らして蠢くダンサーには、顎=頭頂とした第二の顔が浮かび上がる。
第二の顔を浮かび上がらせるものが、肢下にある光面=口から投射/放射されるものの反映/翳でもある以上、底のまた底にいる者の現出なのか。

《のりしろ nori-shiro》より ⓟMIYAUCHI Akiyoshi ©molecular theatre

両手がしだいに耳の傍にあがって掴む
それからほとばしる何かのために
口を解き放って
ムンクの《叫び》に似る姿態になると
覚えない失神のおくから極を追う男と
極に追われる男のさけめに架かる
ながい無音の叫びをおぼえたのだ

(『沈黙への断章』/黒田喜夫/1966.05初出1978改稿)

ここには、何かしらランシエールの「身体によって運ばれる諸々の刻印の展開と、身体の、意味作用なき、剥き出しの現前による中断的な機能―――のあいだの移動となったのです」を想起させるものがある。

イメージに対する言葉の優位性の廃棄あるいは言葉に対するイメージの優位性の廃棄
特異性=単数性の肯定と廃棄

身体すべてが深層そのものになり、基本的な退化を表象する、口の開いたこの深層のなかへすべてを導入して、くわえ込む。すべてが身体であり、身体的である。すべてが身体の混交であり、身体のなかにあり、嵌入であり、滲透である。アルトーが言うように、すべてが身体的なものである。《われわれは、膨れ上がり、苦悩の釘に打ち込まれた背骨を背中に背負い、歩いて行くと、重荷を持ち上げようとする努力と、それに対抗する抵抗とによって、それらの背骨が箱のなかで相互に嵌入することになる》。一本の木・柱・花・杖が身体を突き抜く。つねに他の身体がわれわれの身体のなかに侵入してきて、われわれの身体の諸部分と共存する。すべてが直接的に箱であり、缶詰の食料、排泄物である。表層が存在しないので、内側と外側、含むものと含まれるものにはもはや明確な境界がなく、普遍的な深層のなかに埋没してしまうか、どんどん詰め込まれるにつれて、さらに狭くなる現在の環のなかを回転する。そのために、身体を貫通する深い裂け目のなかか、相互に嵌入し回転する断片的な部分のなかで、矛盾を経験する精神分裂病的な態度が生ずる。濾過器としての身体、断片としての身体、分離されたものとしての身体が、精神分裂病的な身体の三つの最初の次元を形成する。(『意味の論理学』ドゥルーズ/p112-113)

とすると、舞台に登場する前、お前はどこにいたのか? 日常の諸々の仕草のなかに悲しくも散乱して存在していなかったのだ。光のなかで、お前は、それに秩序を与える必要を感じる。毎晩、おのれ一人のために、お前は綱の上を走り、そこで体をねじり、身をねじる。靴紐を結ぶ、鼻をかむ、体を掻く、石鹸を買うといった、平常の仕草の茂みのなかに散乱し迷い込んでいた、調和のある存在を求めて・・・。だが、お前がおのれに近づき、おのれを捕らえるのは一瞬にすぎない。それもつねに、死のような、白い、あの孤独のなかで。(『綱渡り芸人』ジュネ)

豊島/ダンサーによる翻訳の試み、意味を欠いた感覚刺激の沈殿としての翻訳の残余その残余の翻訳・・・、或いは空想身体(に係る視線触発を媒介として象徴構造が埋め込まれるという基礎構造)辺りまで妄想してしまうのは、マニア病か。

《のりしろ nori-shiro》より ⓟMIYAUCHI Akiyoshi ©molecular theatre

そして再びふたつの顔

14
だが沈黙に抗う者と
沈默に生きる者
言葉を信じない男と
言葉でそれを告げる男
おれの双つの顔のあいだで声は悶える

15
そしておれの双つの顔は
おれの顔ではなく
おれの双つの顔を凝視しているおれが
おれの顔だ
おれはきょうの沈默者の盟約としてそれを知る

(『沈黙への断章』/黒田喜夫)

改めて我々も「自分の声は喉で聞」かなければならないのだ。

(10)

耳の
岩の
聴こえるもののない屹立を
いっぴきのわたしの管状の虫が這いあがり
這いあがって落ちる
それはかすかな声だ けれども
唇の
壁の
ひとりの釘うちこんだ膜を
よじり波うたせて
極められない無音と伝達の頂きから
底部をめざし
声噴きでるものの黙秘を
言葉もだえるものの拒否を
それは声のおくの声であり
喉のおくの存在であり
わたしのおくの自由のしずくだ

(『黙秘』/黒田喜夫/1969.05)

《のりしろ nori-shiro》より ⓟMIYAUCHI Akiyoshi ©molecular theatre

複数の黒田喜夫。
ディレイ
ディレイの複合体を鳥瞰的に聴く=エコー=「虚声」。

しかし、2台のCDJで不確定的な時間差を伴って再生される録音音声の総体としての音を、我々は聴くことは出来ない。しかも、2台のCDJで不確定的な時間差を伴って再生された音声は、互いに/のエコーではない。エコーが成立する要素が此処にはないからだ。

主副/主客/加被の関係もない。時間的減衰による音響的変化もない。よって通常の意味での「遅延」でもない。のみならず、会場ではハース効果も感得された。つまり、客席上手側に或る音響心理学的な比重が感じられた。

さらに、CDJの人為的操作による軋みが場の切れ目で付加され、時空のみならず感覚的裂け目をも招来していた。これはエコーではない。

とすると、あれは、パラレルなデュアル・モノラルによる「非―虚声」の現出だったのか。

derrida

だが、爾来、私は遅延をつねに、現在や未来や永遠以上に好んでいたのだ―――私にもっとも多くのものを考えさせてくれるものとして、その時が来る以前の遅延を。遅延の観点から、いま=いまや=今後の(現在の、過去の、未来の)現前を、瞬間を考えるのであって、その逆ではない。実際には、遅延とは正しい語ではない。厳密に言えば、遅延など存在しない。それはけっして、主体にも客体にもならないのだ、遅延は。私が本当に慈しみたいのは、むしろ永久的延期(ルタルドマン・ア・ドゥムール、非対称的時間性の猶予過程、計りえないもののうちに数を刻む猶予期間なのである。(『留まれ、アテネ』/ジャック・デリダ/みすず書房)

複数/断片化される紙片と記憶。
シュレッダ。

現実のシュレッダ動作音は、ほぼリアルタイムで電気的に増幅され、客席左右のスピーカーから非現実的現実音として流される。断裁された複数の紙片あるいは複数の記憶は、光を帯び小さく舞いながら光る底に吸い込まれる。

あの複数の紙片/詩篇は何だったのか。
あの複数の光る切片に写っていた/映されていたものは何だったのか。

意味を欠いた感覚刺激というより、意味を「掻いた」刺激
その残余が降り積もる吸着面。

ここで破断・寸断された紙片/記憶は、しかし不揃いの切片に分割されてなお「死者を保持」し喪の体験を通過させているのではないか。
死者を保持しながらも破断された紙片に映り込む「写真」。
換喩的な置換に抗うのではなく、これらを不確定的に再配置する操作に対するメッセージなのかも知れない。

「言語活動は、<声>が居場所を失ったところで生じるのだ」(アガンベン)

文字通り「黒田喜夫のテクストを朗読した音声データが記録されていたCD」は、文字通り「コエが居場所を無くして逃げ込んだ先」だったとしたらどうか。

それを豊島は捉え、しかし破壊はせずに転生させ、コエを生かしつつ言語活動を起動するために/或いはその仕掛けを《のりしろ》で用いているというヒントを呆けた客=妄想子にチラ見せするかの如く「再配置」された状況を提示していたのか。

青森縣下長苗代村北沼附近(青森測候所報告附圖))/津波ディジタルライブラリィ

甕は白い湖に落ち、

うねりの幻惑。
目くるめく飛沫の乱れ。
黄塵はいま神々の後光となって、
きらめき、
きらめき、水面を這う。

(『砂の断章』/黒田喜夫/1950)

16=「代/白」の地から境界を通して持ち込まれ、8=「端/恥」/のり=「勅/法」の地の「中央」で音を立てて断片化され、残り香のように明滅し二重の「箱」の中の宙を舞いながら光る底=口に落ちたもの。

それを黒田の詩・詩論などから(それに応じて)類推/再解釈しようと足掻くこと自体は可能だろうが、豊島が「単純に」メイエルホリド、ジュネの次に上演用テクストとして黒田喜夫に辿り着いた筈がない。つまり、黒田にのみ囚われて妄想することもまた、豊島の本意を見逃すことに繋がってしまうだろう。妄想は尽きないが、この作品が持つ「政治・性」の匂いを嗅ぐことは忘れないようにしておきたい。

(11)
豊島はかつて「演劇の外部と外部の演劇」と題して「写真の外部と写真=外部。写真を撮ることと考えること。写真における主体性の麻痺と意味性の拘縮。写真という地名と地名を失った公共圏。一極化した政治的現実に踊らされる無意識のテロルとその最新部の裂け目を微動する「ダークマター=暗黒物質」。」と書いたことがある(『演劇ここになき灰——モレキュラーシアターの二〇年』/2006)
また、「外の外」は「内の内」とも書いた(『演劇のアポトージス 第四章』)

だがすでに、演劇を非/外部の演劇にすることや演劇と非/外部の演劇を往還したり並列駆動することではなく、演劇自体を「非演劇モード/外部の演劇モード」で起動/駆動し機能させることに、豊島の興味は推移しているのかも知れない。

いずれにしても、モレキュラーによって、《のりしろ》によって、白の中の白、正方形の光面は、我々の脳裏に刻印されてしまった。
余白の余白として。全ての波長を含む白光の瑕痕として。

これによって白と化した脳裏=白レ脳裏=のりしろは、内在平面に於ける「事故」となった。

豊島・及川=寺山・黒田対談など、ここで触れて/妄想していないことは、まだ数多く残っている。
特に、世田谷シアタートラムでの『OHIO/CATASTROPHE』(2006)で初めて舞台上に登場した豊島が、再度自らのコエ=オンというかたちで出演したことについても、マニアとしては考えておかなければなるまい。

然し乍ら、今回の妄想は、このイル・イーヴン=11で終わることにしよう。

おしまいなんておれたちの妄想にはないんだ。
(黒田喜夫、ではない)

One Response to “蹉陀、そして或いは白レ脳裏”

  1. 錫杖銀龍 « molecularmaniacs Says:

    […] molecularmaniacs モレキュラーマニアックス « 蹉陀、そして或いは白レ脳裏 […]

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