キオスモズ

まず、前回のキオスモの補遺をひとつ。

黒田喜夫が清瀬村の前に居住した糀谷について、黒田がこの地を相当気に入っていたことと、多摩川と呑川に挟まれた地域であることだけ、前回は触れた。この糀谷という地名には、荒涼とした荒地谷が耕された耕地谷に変わり更に米の花が咲く糀谷になった、という由来説があるらしい。

黒田が糀谷を気に入っていたことは、例えば次の話からわかる。

「こんどの病気が悪くなって入院するまで蒲田の糀谷にいたんです。ぼくが住んでいたアパートは現在つぶれちゃって駐車場かなにかになっているらしいですけど。京浜蒲田*を降りて第一京浜を渡って、真向かいの小路をずっと入っていったとこなんですけどね。」

「いいところですよ。ぼくは病気しなかったらずっとあそこに住んでたと思うんですけどね。地方から出てきて東京に住んで落ち着けるというのはあんなところですね。」

「茶系統ですね。いろんなものがあるわけですよ。生活の多様さっていうか、生きてる人の。小さい工場から、商売人、労働者、なんだかわからない人、いろんな人がいていろんな生活があって。街を歩いていても小っちゃい道がそちこちにあって、そういうところを歩きながらいろんな物事を見るのがすごくよくってね。呑川という汚い川があってね。」

(『土と「マレビト」』より/中上健次・黒田喜夫/1976.12:現代詩手帖1977.02)*現在の京急蒲田駅

昭和55年の京浜蒲田駅から糀谷方面を望む/高崎二区氏「港北総合車両センター」より引用

成程、黒田も触れているように、糀谷が或る種の土着的混沌性のようなものを感じられる地域であり、かつ「日本の底の民」が居て、「日本(国家)という共同の観念規範の根もとの、統べられた世界の底の、亡滅することで異民となるもの」の現在=いまが存在するような地域と思われたことが、「ずっと住んで」いたいと思うほどの「愛着」を黒田が覚える所以かも知れない。

然し乍ら、糀谷の地図を、黒田が幼少期を過ごした皿沼のそれと「比較」すると、或る「類似性」に気付かされる。

皿沼

糀谷

どちらも大きく屈曲した大河の内側で、かつ北方を別の川で遮られた低地=谷地であり、さらに北西部には湿地帯あるいは沼地がある、といった地形である。川で囲まれた内側には、複数の小さい水路・川が流れていた。

糀谷のほうにも、いまは暗渠になっている複数の川・水路筋が呑川と多摩川の間にあるだけでなく、東側には海老取川=汽水域があり、蒲田駅程近くの東蒲中学校付近(=黒田旧居付近と想定)に旧呑川(現:旧呑川緑地)と新呑川(現:呑川)への分流点があり、まさに三本/四本の川に挟まれ囲まれた低地/谷地だった。谷地は、yar・chi=湿潤な場所で皿沼のsarとも関連があるらしい。更には、女性器をヤチと称する方言があり、これも同源かも知れないという説もあるようだ。

呑川/加藤歌子氏のご主人が撮影/「呑川の会」2004年12月号会報「呑川残照」より引用

黒田の作品には頻繁に(タイトル・内容とも)河水が登場するが、わざわざ「呑川という汚い川があってね」と黒田本人が対談で触れていることからしても、少なくとも(呑)川とそこに連なる低地を意識していたことは明らかだろう。後に映画「砂の器」(1974年/監督:野村芳太郎/脚本:橋本忍・山田洋次)にも登場する呑川は、この当時は相当に汚いイメージがあったようだ。

廃線になったK急行の鉄橋にのぼって河口を眺めた
(中略)
魅されていてふと
気配を感じた
辺りをみまわして愕っとした
鉄骨にむぼくと並んで
何人もの男がじいっと河口の舟を視ている
どこの誰と見分けつかない
逆光に黒く顔をおいて
ひと塊りの男たちが舟を視ている
そんな筈はない此処にのぼったのは一人だ
と佇立した
(後略)
(黒田喜夫『河口眺望』より/飯塚書店/1959.12)

この『河口眺望』は「不安と遊撃」に収録されている作品だが、新日本文学に発表された時のタイトルは『憑かれている日のデッサン』だったという。

K兄さん(『非合法の午後』)とK急行(『河口眺望』)。
いずれも昭和三十三年〜三十四年に書かれた。『毒虫飼育』も含め。

現在の旧呑川河口近く/上野隆史氏「多摩川の汽水域」より引用

新呑川河口付近/yookud氏「目にしてきたもの」から引用

無論、これらの「類似性」或いは「相似性」(らしきもの)を、単純な、地理的・視覚的なアナロジーで了解=思考停止してはならず、それを別の複数の相似性に開き、黒田の回路に接続していくようにしなければ意味が無い。

だが、「土着と亡滅」の中で「思い描くことがある」として次のように黒田が書いたことを想えば、幻視されたかも知れない「場所」/場所性の問題も排除すべきではない、と妄想しておきたい。

幼時、私の育った北方の村の近くに、原野ともいえない原野じみた場所があった。その村は、津軽下北からは奥羽山脈が南につながるところ、奥羽山脈と出羽山脈にはさまれた盆地を流れる最上川という河の岸にあったが、河が山から平地で流れ出たきわの、流れの方向を決めかねて曲がりくねったような河の彎曲部の内にひとくぎりの地があり、そこは、その地に(農耕)村落が形成されたとき以来、何十回、何百回となくあっただろう洪水や流れの移動によって冠水と荒蕪をくり返し、その地にわずかに未墾に残されたと思われる場所だった。
砂礫土に丈高い草とぐみや柳などの矮樹を生やした其処は、寺町や大工町のある「町」から母の生家のある村に移ったあと、私が生まれて初めて自然や野生の(おそらくそのミニチュアのだが)気高さ、生々しさ、開かれたきびしさなどに触れた場所であった。想うに、村からあらゆる季節に魅された通った其処は、おそらく亡滅した獣たち鳥たちの幻の白であり、村のひとびとの生から投げ棄てられた場所だったが、しかし、私はそこで夏の日の蛇の交わりを見た。(中略)そして七月の草の深みに故もなく踞っていたときに、そこで熱気と植物の匂いに包まれつつにんげんである自然の、自らの初めての強い性の衝動を覚えたりした。
(『一人の彼方へ』/国文社/1979.03)

呑川は、桜新町の湧水や清水窪弁財天池、洗足池、九品仏(浄真寺)池などからの流れを水源とし、大森貝塚がある鹿島谷など複数の谷を経て羽田で海に注ぐ河川だが、寒河江の最上川と同様に、何度も氾濫し流域に被害をもたらした河でもある。

最も大きな被害が出たのは昭和三十三年九月の狩野川台風(国際名:Ida)の時だとされるが、まさにこの昭和三十三年の春に、黒田は池田三千代と結婚して西巣鴨の借間から糀谷に転居しているのである。とすると、多くの床上浸水を出した狩野川台風の水害を明らかに目撃・体験しただろうし、黒田自身、結婚後の新居で水害を被った可能性も出てくるわけだ。黒田喜夫年譜によれば、この年の九月(=狩野川台風襲来時期)に仕事の空白がある(未発表の詩「遠くから襲う幻」という作品も気になる)

病気再発の兆しもあったこの年、糀谷で黒田は何を考えていたのだろうか。

狩野川台風時の西川口/「山田君の世界」より引用

呑川流域の浸水(昭和33年〜57年当時)/呑川の会より

恐らくは米沢最上屋で発芽・感染し、皿沼で仕込まれ、西巣鴨糀谷で醸成され、清瀬村で反熟成されていったと思われる黒田の強烈な戦意とそのエネルギー、「内の内に抜け出す」「円環運動を脱臼」(鵜飼哲)させるような黒田の思想(の深化)には、逆に、これらの居住地における或る考古歴史地理学的でトポロジカルな要素、および「過去についてのいまだ意識されない知の覚醒」(ベンヤミン)によって視覚がずらされ「そこから出現してくる積極的な部分」=パサージュとしての記憶なども或る種の影響を与えていたのではないか、などと深夜に空腹を覚えつつ妄想する。

閑話休題。
さて、「あんにや」の話に戻ろう。
また閑話が続く

あんにや/あんにゃ=「穴」といった単純なアナロジーで考えられる話ではない。そもそも、黒田が書いている(寒河江=西村山郡の)あんにやの意味は、周辺地域とは異なっているのである。もっと言えば、黒田は「出羽村山地方の一角に」あんにやという言葉があるとしているわけだから、もっと局所的な(たとえば皿沼周辺の)言葉なのかも知れない。

山形に隣接する宮城県(名取市付近)および福島県(郡山市付近)にあける「あんにゃ」或いは「あにゃ」は、卑称どころかどちらかと言えば他意のないお兄さんという程の意味であり、「死にいたる飢餓」におけるそれとは異なる。ヤマトの侵攻ルートでもあった同じく隣県の新潟県においても、長男・跡継ぎという程の意味であったとされる。

たとえば『家族間の呼称表現における通時的研究――子供中心的用法に着目して――』(金世郎)には、次のように書かれている。

p275
新潟市五十嵐ニの町
あんにゃ
長男・跡継ぎ(日本国語大事典第二版)
単なる親族関係を表す呼称ではなく、家の中での「地位・序列」を表す呼称まさに「地位・序列呼称」である。

p279
江戸中期に日本全国の方言や語彙を載せた辞書「物類称呼」によると、
◯兄 あに(嫡子也、俗にそう領といふ)◯越後にてあんにやさといふ。東國にてせなといふ。出羽にてあんこうといふ。奥ノ南部にてあいなといふ。九(刀みっつ)にてばぼうといふ。土佐にておやがたちといふ(備前にていふ親かたもをなし心か)(物類呼称・巻一)

つまり、江戸中期には山形=出羽では、あんにゃではなく「あんこう」と言われていた、ということだ。とすると、黒田が「自分にとっての自己異物の存在」と語ったあんにやはどこから来たのだろうか。

日本における最初の植民地としての東北を黒田は書いているが、ヤマトによる蝦夷征伐における戦線を見ると、確かに山形、そして福島県北部=宮城県境の国見辺りにその衝突の痕跡がある。だがしかし、大和時代の後も山形は同じ流れに晒されてきた。大化の改新の前は、今の福井県関峠辺りから新潟県弥彦山までが越国であり、今の新潟市から北は蝦夷だった。所謂「みちのく」は出羽国成立前の陸奥国のことであり、庄内・仙北を除く南東北全域を指していた。出羽国は、越後国の庄内と陸奥国の置賜・村山・最上を譲り受けて成立したことから、譲り受けた側の意識と元の所有者である越の意識とは、相当な隔たりがあったものと妄想される。しかも越のみならず陸奥からも譲渡を受けているわけで、その両者に左右から継続して挟撃される「内の」地域として出羽国は成立していた、とも言えるだろう。

山形は、まさにアガンベンが言うところの「対立しあうものの境界線上にある裂け目」に当たる地域であったのであり、だからこそそこで「あらゆるものを可能にする潜在力を透かし見」るような思想が育まれた可能性もゼロではあるまい。

これらの地域性に関する話はより時間をかけて資料を読み解くことを継続しなければ妄想しようもないが、たとえば以下に示す小野望氏『「物類称呼」の地名表示について』が参考になる。

小野望氏『「物類称呼」の地名表示について』(PDF)

黒田は、次のように語っている。

「あんにゃ」というなら、自分自身がその後の「あんにゃ」だと思っているわけですが・・・。「あんにゃ」というのはつまり自分にとっての自己異物の存在なんですよ。たとえば先の川端康成の文学のモチーフまでに関わって云々される被差別部落の問題というのは、天皇制の成立によるものとして、天皇制ーー日本国家の歴史上最初の植民地であった東北地方の場合は別な内実に現れる。それは自己体験としてはないので、ぼくの場合、その内実からの像としてはたとえば「あんにゃ」なんていうものが出てくるわけですけれども、そしてぼくは詩のうえで「あんにゃ」という名称は使わなかったし、使わないと思いますが、自分の反景物の闘いとしての自己異物化の行為は詩の根幹として続けてきたわけです。まあ、日本近代を生きる具体的な生活者たる誰か「あんにゃ」の一人を考えたら、彼は短歌定型の表現などとはおそろしく遠い存在ですが、彼の自覚しない夢(共同体、解放)を自分に体験化しよびさまそうとするとしたら、それは自己異物化の行為と分けられないものになる。別に言えば、日本近代のいわば意識下の存在、意識下の反自然のモノたちの運動のところまで、自己、あるいは自己である視線を否定客体化する、解体しようとするほかはないのですね。さっきの『伊豆の踊子』の話で言えば、その主格そのものが異様化され、異物化されるようなところまでですね。わが「あんにゃ」は、景物的文化の仮装の頂点からは最も遠いところの存在ですが、まさに、だからあなたの言われるように景物(共同体の仮装)へ投身するかしれませんし、それと分けられない反対側でスターリニズムといわれる救済へ投身するかもしれないからですね。ぼくはむしろ、この自覚から、自分の「あんにゃ」の像を自分の中に探っていったと言った方がいいわけです。そのわが「あんにゃ」の考えられる二つの分けられない投身の型は、日本近代の仮装の個人といった位相での、常民観、自然観、モダニズムへの脱出などになぞらえられると思うんですが、そういう自覚の自己異物化の、そのへんの両面の景物破棄の闘いがぼくの場合ですと、要するに詩の出発点になったというように自分では解釈するわけですけど・・・。その後の「あんにゃ」如何ということになれば、つまりは、いま現にこんなふうにじたばたしている自分自身がそうであると。(『短歌的叙情と共同体』/岡庭昇・黒田喜夫/現代詩手帖1977.08)

ここで言われている反景物/景物破棄と自己投身が、一つの布石として「」を誘う。

冒頭で引用したように黒田と対談した中上健次は、黒田没後、次のように書いた。

「あんにゃ」、母権の中から誕生した自由者と読み換えたのは、まったく私一人の恣意による。私の母の里の古座で若衆の事を、アイヤと呼ぶ。さらに私の生まれ育った熊野の路地ではアニと呼ぶ。アイヤもアニも単に「兄ちゃん」という三人称ではなく、階層や階級とあたうる限り近く、蔑称も親近感もイナセもあわせ含む言葉であるが、日本の表と裏を、北と南を「天皇」や「国家」をズラし組み変える母権の力のベルトが、「あんにゃ」=アイヤとして存在していると気づいたのだった。(『アイヤとしての黒田喜夫』/黒田喜夫全詩栞:思潮社/1985)

意識下の存在まで自己である視線を否定客体化し、主格そのものを異物化するようにしてズラした先に現れるものとは・・・

記憶或いは時間軸におけるこうした「ズラし」は、ちょうど今週報道されていた、S. Jay OlsonとTimothy C. Ralphという二人の量子物理学者が論文で数学的に示したこと=量子もつれは時間も超越(距離だけでなく、時間的に離れている粒子どうしでも互いに相関を持ちうること)をも想起させる。漸く科学も追跡の途につきつつある、というところか。

黒田における「あんにや」は、『死にいたる飢餓』と『永遠の青年』に登場する。
前者は引用されることもあるようだが、後者は稀かも知れない。

この『永遠の青年』(1964)において、「ヒラスビ」という「時間」に、当時小学生の黒田が万五郎あんにやと馬鈴薯畑辺りでばったり出会いそして逃げ出した一件、そして「ただ私の耳はみずから自分を「あんにや」と呼ぶ声を聞きつづけ、聞きつづけるその時どきに、かって或る夏の日にかん高くひびいた自分の声と黙って私を見た万五郎あんにやの顔を忘れることができないのです」と書かれている。黒田があんにやについての思考を紡ぎ始める大きな契機(のひとつ)と思われるこの一件は、再度読まれなければなるまい。

『死にいたる飢餓』では、

言葉を吐くとき、ひとびとの口は深い穴だ。深く暗い穴。ひとびとが言葉を吐くのではなく、まるで穴そのものが吐くようだ。

深く暗い穴。われわれ自身を通じわれわれ自身を超える穴。そしておそらく穴の底には、中世、近世における農奴、質物奉公人や放下人の姿があんにや達の祖として、まだうごめいているのが見えるかも知れない。

だから、私も深く暗い穴の内壁をただ上へのぼる、のぼろうとする衝動を原発のエネルギーとしてきたことは確かだーーー上へ上へ上へ。上とは何処へだ? ひとびとから見えない処へ。見えざる男になるために。不治の飢餓病から逃れるために。

彼らが戦後の激動期の或るエピソードの場景に現れ、或る姿勢をとったまま、いわば私の目のうらのネガフイルムにおさまったときには、全くのところ見える男、見られている男以外のものではなかったが、彼らはそのとき、自分が見える男、見られている男であるのをみずから徹底的に意識していることにおいて、正に象徴的に「あんにや」なのだった。この二人の「あんにや」は、みずから意識するほどぬきさしならぬ「あんにや」であり、そして、ほかでもなくそれ故に、見える男から見えざる男へとそのとき変身していたのだ。少なくとも変身しようとしていたのだ。

と書いている。最後の下りの次には、旧暦六月一日=「むけ日」=蛇が脱皮する日として餅をついて祭る(皿沼の)ならいに触れ、「蛇が夏の始めの或る日に古い皮をぬぎすてるように「あんにや」としての透いて見える体皮をぬぎすて、ひとびとの目が見透すことのできない何かを身にまとったのだ」と「二人のあんにや」に関する指摘がある。ここで冒頭で引用した皿沼の「原野」において黒田が目撃した「蛇の交わり」も想起されてくるが、まだまだ底が見えない。

底が見えない=ミズ/知れない深い穴から「見えない処へ」の脱出と、蛇が蜷局を巻いて脱皮=変身=ヘンミ(蛇の語源のひとつ)し「見透かすことのできない何かを身に纏う」ことから、或る円環性(螺旋)の運動とその反転、および両義性それ自体を問いとして生きること(パオロ・ヴィルノ)に想いが至る。

ある円環性の運動/反転を備えるようなミズの穴、此処に至って妄想子は、漸く、まいまいず井戸に辿り着くことになる。

まいまいず井戸(「羽村臨視日記」天保4年)/多摩川流域リバーミュージアムより引用

現在のまいまいず井戸/たまびと日記より引用

ここでまいまいず井戸、或いはそれに係る吉増剛造の仕事を妄想するには、余りにも紙面が足りないので、先を急ぐ。

さらに吉増剛造は、鵜飼、八角との鼎談で、次のように語っている。

鵜飼 それで井戸に向かって下りていくと同時にサウンドスケープが変わっていって、特にtakeIでは音が聴こえなくなっていくことを聴きとらせるという、今まで経験したがことがなかったような経験ですけど、それと映像の感触とがパラレルになって、見る側が吸い込まれていくような感じがするわけです。八角さんが解題に書かれているように、同時にそれはその井戸で水を汲んでいた人たちを幻視させ、takeIIでは横田基地や御嶽という言葉が出てきて、東京の郊外の羽村のまいまいず井戸が、なんと沖縄ともつながっていくということですよね。そして、ある意味では冥界ににもつながっていく。これはこの作品全体のキックオフのようなもので、まいまいず井戸から吉増さんの記憶のさまざまな層につながり、さまざまな場所にもつながる。今回の作品には出てきませんが、札幌の吉成さんがやっている・・・。

吉増 『アフンルパル通信』ですね。

鵜飼 あのアフンルパルという場所も、やはり冥界への入口と伝えられている場所ですよね。実際にあの場所がどれぐらい、まいまいず井戸に似ているのかわかりませんけれども・・・。

吉増 ほぼそっくり。
(『キセキーgozoCiné』より)

斯くして、まいまいず井戸からアフンルパルに、吹っ飛ばされることになるわけだ。

アフンルパル/hiro_s76氏「古い地名日記」より引用

いまさら書くまでもなく、異界への通路あるいはパサージュとしてのアフンルパルは、またミズとの関係も指摘されてきた。

たとえば、hiro_s76氏によれば、氏が訪れた上の写真のアフンルパルの脇には、水神が祀られているとのことだ。しかも湧水はアフンルパルの地下から噴出しているらしい。ここにも穴、パサージュ、ミズが現れる。

水神大神/hiro_s76氏「古い地名日記」より引用

アフンルパルから、今度はキオスで書いた尻労洞窟或いは沖縄へと妄想が飛翔しようとするのを留め置いて、われわれはもうひとつの穴をここで想起しておかねばなるまい。それは「塞がれなかった黒田喜夫の背中の穴」である。

尻労洞窟=安部遺跡/Yum@横浜氏「ソラとキミとワ」より引用

阿部岩夫編による黒田喜夫年譜(『黒田喜夫全詩』)から、部分的に引用し抜き出してみる。

昭和三十四年十一月

右肺が自然気胸を起こし瀕死の状態となる。ただちに「列島」同人であった御庄博美によって、代々木病院に入院させられる。

昭和三十五年四月

十一年前=昭和二十四年六月に国立療養所左沢光風園で受けた左肺合成樹脂充填術手術の化膿部位を大手術し、合成樹脂の玉を抜くも、それ以上の処置が取れず左肺背部を「切り開いたまま」となる。以後度々死線をさまよう。八月危篤状態。

昭和三十八年四月

木原啓允らの介添により、寝台車で清瀬町国立東京病院東療病棟外科に転院。六月、同外科吉村輝仁永医師により左肺上葉切除術、化膿部位切除を受けて、切り開いたままの傷を塞いだ。

この間、実に丸三年間も「背中に穴が開いたままの状態」でありながら、『地中の武器』に収録される作品などの詩作・評論を継続していたことになる。そればかりか、昭和三十七年一月、この状態で、代々木病院病室内で共産党中央統制委員会の査問を受け、すでに離党を表明していたにも関わらず「除名」されたわけだ。この間、黒田自身の文章によれば「昔やった胸部手術のあとの化膿部分を切開してそこから肺気管支までガーゼをつめ、鼻には酸素吸入のゴム管をつつこんでいる有様」(『死にいたる飢餓』あとがきより)という。
敢えて書くが、何という壮絶な戦意か。

最晩年の作品においても、

(略)
七月の朝 兇しい分泌のしたたりから
しだいに茎葉のはみでてくる譫妄の旅の
唇を見あげたままだ
瀕死の幼虫たちを垂らす歯の沿りの一叢を
しきりに医師は歯交換現象のコロニーか
これは手足口病の変種かなどと逃げ去る けれども
出羽山地民出身看護婦トミチャンは耐えきれず
そのとき扉からおれに振りかえりざま
この人の口はまるで虫地獄のにがぐさの
野(ぬつぷ)だァと指さし沙鳴った
(略)
(『毒だみ』より)

モレキュラーシアター『マウストmouthed』より

(略)

西南の窓に対し伏す 午後ふかく
幻よりそむける目前のひかりの穴
答えぬ物たちの先端のカーテンを払う 黙するビニールすだれの彼
方 窓の外の丈低い雑木のかなたのわが黄褐の陽 ひかりの腫瘍
けれども午後ふかく
目前のひかりの穴 幻より
そむける額と障子の斜面の底の
去り墜ちる陽に手折れ屈している憤怒から
しきりに燻りあがる夕暮まえは耐えず
いまわが驅身に答えは燃えよと起つ者は
そのままよろばい路へ出ていった なお
一尾のいさきに似た魚がひらひらと前を泳いでいった
(略)
(『遠くの夏 ー記・初秋某日』より)

モレキュラーシアター『BBB1』より

のように、穴=口が終わることはない。
ミズ=水・川・水源も同じく。

想えば、アフンルパルの名を冠した個展を開いた写真家露口啓二もまた、「視覚から微かにでも遊離する」ミズを追求している作家であり、その射程の間にある亀裂=裂目は底知れず深い。

今回は、余りにも長い妄想となった。
妄想に付き合わされる方もたまったものであるまい。

然し乍ら、これで漸くICANOFのKwiGua展および「飢餓の木2010」そして、今月公演されたモレキュラーシアター作品「のりしろ nori-shiro」が、妄想触手の射程距離に入ったとも言えよう。

妄想子にとって「のりしろ」体験とは、表層からは見えない/見ないしかし我々の視線/思考の裂け目を励起して止まない或る種の出来事の発現であり、それに出会した/直面した時の戸惑いと或る種の衝撃を、徹底して注意深く自身の体験(の内部)から「再」召喚し更に開いていく「格闘」への参画を促されるようなものであったと、取り敢えず今は思っている。

だが、その前に越えなければ、いや踏み入らねばならない「川」がある。

及川廣信『村への遊撃ー黒田喜夫に』/©Aki YONAI ©ICANOF

ダンス「村への遊撃 ―黒田喜夫に」において及川廣信が最後に踏み入っていった「川」はどこに向かって流れていたのだろうか。

One Response to “キオスモズ”

  1. 森田拓也 Says:

    こんばんは。『黒田喜夫全詩』持っておられるんですね!いいなー!

Leave a Reply

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out / Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out / Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out / Change )

Google+ photo

You are commenting using your Google+ account. Log Out / Change )

Connecting to %s


%d bloggers like this: