まず一篇の詩を(部分的に)引用してみよう。
夜半に見る河をわたる肢(あし)わたしは眠っているのではない胸から切れこんで地にはしる流れの岸に倒れていた身をもたげて見た月布川という出羽褶曲大地の切れこみが深く眼前をえぐって対岸の岸が剥落するのを黒くわれめを見せ中空に放たれるが次に音なく土塊が夜光する流れに崩れ落ちつづけるのを岸に身をもたげわたしは眠っているのではない白昼の眠りの中ならこうだ・・・眠りの中に現れる村があるダムの底でも古い遺跡でもなく薄明の水そこに宿(しく)とよばれる群落に似た家並がある白昼の眠りの中なら 水そこの遠くから家並の間を金色の獣の仔のようなものが走り近づいてきたと思うと不意に鉤を喰(は)んでのけぞりみるみる白濁した死魚の形となって水面に吊りあげられてゆくこの痛恨の懐しさにわたしは眠っているのではない
板張りのしたを流れている、川をわたしははじめ下水(どぶ)だとおもったが、水音を聞いていると、わずかながら囁く声がある。工事人足たちのおしゃべりとおもったが、違う。枕のしたを流れる京都舞妓の夢ともちがう。むしろ濁った酒、血の川、酒の川に似ているだろうか。灘という不思議な溝。大蛇、下水(どぶ)、池、堤防、蛇籠(じゃかご)、鯰、環太平洋、和歌山、銀河、どこか水音が違う。血が流れている。水上の魔の家であろうか。しかとは判らぬ。覗きこむと水のなかに沈んでいる深い井戸がみえる。それは沖積期時代の古い井戸であるらしい。そこにも血が流れている。たしかに下水(どぶ)ではない。悪臭が聞こえてこぬのだから。登呂であろうか長瀞。泥土に埋葬され血の川を覚えて囁きあう人柱伝説、飯場、工事現場には、太古より人足たちの優しい友情が存在している。飯場、お箸やドラムカンがみえる川辺の風景が遠くにみえてきた!そして、熊野では浮島を浮かべ、献灯は静かに太平洋を還流する、非常な高熱の血の川である。
言うまでもなく、引用一篇目は、黒田喜夫『夜の兵士たちへ ーー枕頭詩篇より』(1977/思潮社「自然と行為」所収)、二篇目は吉増剛造『血の川くだり』(1974/青土社「わが悪魔祓い」所収)である。
安易に比較することは勿論出来ないし意味を持ち得ないが、何れも水=ミズ=見ずの奥底に潜み揺蕩うものを掬いあげようとすることを介して、見えるものと見えないものとのズレ、身体性と身体性から剥離されたものとの余白、想起不可能な記憶の想起における記憶の可塑性の明滅、色彩・音・視覚と心象とのキワなどについての、ある種の「転覆」について触れているようにも(妄想子には)妄想される。
「それを取ったら何もなくなるといえるような私の一点があった、あるとしたら、それはアジア的身体の両義性への眼と痛みある共感といったものだ、と言っておこう。両義性を両義性のまま背負うことの戦闘性のみならず、身体である故に自らの身体を視得ないもの--その身体自身が、自ら視開き得るところへの方途の困難さへの目差しをはなさない、そのことである。」(「人はなぜ詩に囚われるのか」所収『清瀬村より』より)と書いた黒田喜夫は、山形県米沢市で生まれた後、同県西村山郡寒河江町皿沼(現:山形県寒河江市大字島字皿沼)で育った。
皿沼地区は文字通りの低地で、最上川と寒河江川の二本の川に挟まれたところにある。皿沼の北東にある泊川(とまりが)は辺り一面の桑畑(『毒虫飼育』を想起させられる)であると同時にツツガムシ発生の地でもり、「近づくな」と地元で言われていた地域だった。笊籬=アイヌ語のsar=葦原との関係も頭を過る。久米正雄『蛍草』で書かれたのも(妄想子は未確認ながら)この泊川地域(現:河北町溝辺)のことであるらしい。
この左沢は、米沢にいた吉本隆明が徴兵検査を受けた町であり、黒田喜夫によればアテラザワ=ate-e-ra-nay=オヒョウニレ・そこの・下方に・沢=楡の木のある所の下流の沢の意であるらしい。勿論、アテラから直ちに連想されるように、八世紀の東北大抵抗戦争の統領「阿弖流為(アテルイ)」の名との繋がりの指摘もある。そういえば、アテルイという作品のフランス公演で成功を収めたモレキュラーシアターという劇団もあった。
黒田喜夫は上京した後、糀谷(蒲田)を経て、彼の言うところの「清瀬村」に居住する。ここでいう清瀬村は清瀬市(恐らくは黒田の住居があった清瀬市竹岡二丁目界隈)のことだが、その前身は神奈川県北多摩郡清瀬村~東京府北多摩郡清瀬村だった。
奇妙なことにこの清瀬村も、皿沼同様に、二本の川で挟まれている。柳瀬川と野火止用水である。さらに流域には淡路島の形の池=心字池・トンボ池・放生池がある平林寺がある。黒田が相当に気に入っていたと思われる糀谷も、謂わば多摩川と呑川に挟まれた地域と見ることができる。
とすると、黒田喜夫は、二本の川で挟まれた、言うならば二本の川に挟撃された余白に、幼少時から死去するまでは住んでいた、と云えるかも知れない。
吉増剛造はいまの福生市=神奈川県多摩郡福生村~東京府西多摩郡福生村にて育つことになるわけだが、この福生市も玉川上水と多摩川・田村分水という二本の川に挟まれた地であり、しかも福生(古くはふっちゃ)という呼称自体、アイヌ語で「沼のほとり」或いは「湧水」を意味する言葉が変じた可能性が指摘されているものだ。また、この地域の地名にはマオリ語の痕跡が残るという説もあり、それによればフッサ=フツ・タ=hutu-ta=魚を捕る網を仕掛ける(場所)/フ・ツタ=hu-tuta=(多摩川が)狭くなった場所の裏側の・湿地(または丘陵)の転訛らしい。
いずれにしても、またしても「二本の川の隙間」と「沼」である。
少年時代、おれは濁流のなかで両眼をひらき、眼にびっしりとつまる泥土、砂利つぶをみた。仏教の卒塔婆、供物の野菜類も墓所から流れきたった。上流には死体も埋葬されていたのであろう。キャサリン台風であったろうか、アイオン台風であったか、台風後、洪水の、濁流のなかを泳ぎながら、そのとき溺れはじめるという感覚はすこしもなく、おれは死骸であり、洪水の刑に処せられた死刑囚であったとでもいおうか。明らかにそれは死への陶酔であったが、無意識のうちにおれはおれの運命をみていた。水を泳ぐという感覚、いや肉体を水につつまれるという快感がうまれたのはそのあとのことであって、おそらく自らの死体を感じてしまったのちにはじめて生じた快楽だったのであろう。『地獄わたりはじめ』(1974/青土社「わが悪魔祓い」所収)より
January 28, 2011 at 01:56 |
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April 7, 2011 at 02:53 |
[…] 二本の氾濫する河と池/沼。 デジャヴは続く。 《のりしろ nori-shiro》より ⓟMIYAUCHI Akiyoshi ©molecular theatre […]
October 5, 2017 at 09:21 |
随分以前のポストへのコメントで申し訳ございません。
黒田が「左沢」の語源について記している原典を知りたく存じております。お手数おかけいたしまして恐縮でございますが、お知らせいただけましたら幸いでございます。
よろしくお願いいたします。
October 5, 2017 at 10:02 |
コメント有難うございます。
黒田による「左沢」語源の記載の件ですが、私は『一人の彼方へ』(国文社/昭和54年初版/P199-200)で確認しております。ご参考まで。
October 5, 2017 at 10:48
厚かましいお願いにもかかわらず、さっそくにお返事いただきまして誠にありがとうございます。該当行までお知らせいただきまして恐縮です。
残念ながら私の家の近隣の図書館にはないようで、都立図書館か国会図書館で閲覧してまいります。かかる手間も楽しみのうちで。
お忙しいところ、ご丁寧にありがとうございました。