凶器を狂気だけにしない魔のスレスレ

明日から「伊藤二子展」が始まる。
容赦なく始まってしまうのだ。

伊藤二子展チラシ | designed by ASOBI Sasaki

昨日の己れを超え得たか。
太古の風をひきつぎ得たか。
現代に存在しうるものであるか。
明日への展望をもち得たか。
社会に連帯しうるものであるか。
これが私のいのちの形なのか。
(伊藤二子)

土曜日に観覧する予定にはしているものの、「鋼のナイフで塗り込められたダークマターの記憶・苦役・未完にほかならず、僅かに塗り残されたその消息から切り返されてくる照層の「窮部=ポワン・キュルミナン」」(豊島重之)あるいは「漆黒面を敢えて失う造形工程によって、パラドキシカルにもがきだす黒の「マテリア=物質性の底面」」(同)と、果たして正対し得るのか、その展示の前で思考し言葉を紡ぐことが可能なのか、甚だ心許ない。
そう、伊藤二子を見る/観ることには、「覚悟」も必要なのである。

モレキュラーシアター演出の豊島重之と伊藤二子の出会いは、44年強前のことという。その伊藤二子の名前がモレキュラーあるいはICANOFの刊行物に登場するのは、未確認ながら、モレキュラー20周年「PANTANAL」(2006)の豊島による編集後記が最初であると思う。

なぜ2006年だったのか。
なぜもっと前ではなかったのか。

PANTANALの編集後記(2006.08.28)で豊島は、伊藤二子の絵画造形に対する豊島なりのオマージュ=二つのヴァリエテとして、1)伊藤二子の作品群は、ポアンカレの「決定論的カオス」的な現象のような波及性/外部性/潜在性を担っていること、2)ゲルハルト・リヒターの33層のアブストラクト絵画との「共現前」、を挙げた。

後者では、

共現前とは単に同時代性や影響関係を意味しません。ドイツではリヒターが、日本では二子さんが、それぞれ別個に単独的に内燃し、絶えず限界に直面しつつ、その限界を突き抜けて<いま・ここ>に「現働化=アクチュアリゼ」している。現働化とは、可能性の「実現=レアリゼ」とは対照的な様態です。レアリゼは、描画前のモチーフや色面=プランや質感=タッシュにあらゆる可能性を盛り込みつつ描画的に実現すること。ところがアクチュアリゼは、タブロー上で可能なそれらの実現/再現/表象を赦さない。その反対に、不可視/不可知/不可蝕なもの、要するに潜在性の地平が露頭してくる事を指しています。

としている。

これに留まらず、編集後記として採録された伊藤二子への書簡の中で

二子さんの展示は私には、生きてしあることを恥じるな、恥じるなら恥じて恥じて、さらに恥じ抜いて、その恥辱の地層の底をぶち抜け、と呼び掛けているように思えました。決して恥辱の地層の手前で思考したり言葉を紡いだりしてはならないと。

とまで書いた。

さらに

伊藤二子さんの油彩造形は、私達モレキュラーシアターの20年の苦楽が何程のものでもない事を真っ直ぐに告げ、それどころか私達が痛感している以上の舞台に「立つことのクリュオテ=残酷」を贈与しつづける。贈与とは「返礼なき贈与」の事だ。どんな返礼も避けなくてはならず、あらゆる返礼はあってはならない。一方的かつトタール=全的、それが贈与だ。決して内面化される事のない残余。内部なき「絶対的外部」。

と記している。

もうおわかりだろう。
ここまで記したことだけでも直ちに了解される通り、モレキュラーマニアは、何はともあれ、伊藤二子展に、彼女の作品に、まずは立ち会わなければならない。

2006年以後、伊藤二子に関するテクストは増加していく。
ISTHMUS(2007)では、たとえば採録されたトークショー/2007.04.15において、鵜飼哲が、

伊藤さんは逆に、ご自分の作品にタイトルを与えないんですね。そのことが伊藤さんの芸術を理解する上で私は大変、大事なポイントではないかと思うんです。

孤絶した、一作一作のタブローが、逆にですね、星座のようようにつながり合って(略)新たな作品の空間を、この「空間という作品」を作り出しているような気がしています。

といった指摘をはじめ、「多孔性」の問題に触れた後、「必死に考えようとしているポイント」として、

この伊藤さんのほとんどの作品が最初にその色に塗り込められる「黒」のことです。(略)そこから、いわば「放ち下ろす」ですね。それは、そこに向かって「放ち下ろす」空間、そうやって作られるということでもあり、そこから放ち下ろされた自分、というものを発見する、そういう空間でもある、そういう気がします。ジャン・ジュネの作品に繰り返し出てくる「夜」のイメージに、私は非常に近い感触を覚えます。

と語ったほか、八角聡仁が、「フレーム」の問題のほか、ジュネの「アルベルト・ジャコメッティのアトリエ」における「美には傷以外の起源はない」を踏まえて、

(伊藤さんが)作品をナイフで描いていくというのは、これはまさに「傷」を付けていく作業ですね。そして傷というのは、身体の内部と外部が、いわばめくれ返るようにして通じてしまう、或いは裏返ってしまう場所ということになります。そして傷は同時に、そこで起こった出来事の痕跡でもある。それでは、ナイフで絵が描かれる時、そこで「傷つけられるもの」は一体何だろうか。また、傷によって今まで見えなかった内部が外部に露出してくるとすれば、そこでは何が描かれ、作品とともに何が起きているのか、そんな問いがひとまず考えられると思います。

と指摘している。

こうした例示は枚挙に遑がないので、「PANTANAL」「ISTHMUS」「68-72*世界革命*展」そして「BLINKS OF BLOTS AND BLANKS/露口啓二写真集」を、マニアは通読されたい。

伊藤二子自身によるテクスト「外にあり 内にあり 刹那にあり」も、ISTHMUSに収録されている。ここでは敢えてこの内容には触れないが、このタイトル(彼女の造形作品にはタイトルが与えられていないが、このテクストにはタイトルがある)を繰り返し目で舐め、なぞってみるだけで、ダークマターに浸潤されそうな予感を覚えるのは妄想子だけか。

妄想ついでに記しておけば、昨年訪八した時には、実際に観ることができた伊藤二子の作品および豊島和子の舞踊と、なぜかジョルジュ・ブラックについてのベルナール・ジュルシェのテクストとが、脳髄内で明滅しつつ半融合と半分離を繰り返していたように記憶している。また「敷居」と「差し引き」の問題は、それ以後妄想子自身の活動における問題として、常に傍らにある。

1926年生まれの伊藤二子と同年代の豊島和子(先日逝去した大野一雄と同じく江口隆哉・宮操子門下)が、それぞれ造形と舞踊において提示し突きつけるもの・ことに、いま、目を逸らしてはならない。

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