寄生された日

思えば1986年にコトは起こっていたのだ。

それまでのスタイルを一変させ、及川廣信プロデュースによる『f/F・パラサイト』(転形劇場T2スタジオ)でモレキュラー・シアターが起動したのが、1986年10月9日だった。

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この日は、goo天気によれば「晴れ」だった(前日までは雨だった)ようだが、生まれて初めて降り立った有楽町線氷川台駅とその周辺はどんよりとしていたように記憶している。これは、氷川台駅が石神井側の正久保橋の地下に位置することや、当時の石神井川、夜のそれも江戸川乱歩的に心(うら)寂しい倉庫街の雰囲気によるものだったのかもしれない。

しかし、そもそもが、1457年長禄元年に渋川義鏡(足利泰氏の子義顕の曾孫の子)が石神井川を渡ろうとしたときに発見した泉に基づく神域(「お浜井戸」)であり、そこに鎮座していた氷川神社から名付けられた土地(氷川台)でもあるから、昔から湿っていたのだろう。湿った土地に1985年にT2スタジオが開設され、そこで1981年からロングラン公演されていた「水の駅」が1986年12月28日までの毎月最終土曜に公演されていた。その湿り続けた合間を縫って、モレキュラーは起動したことになる。

現在は、汎マイム工房が引き継ぎスタジオPACとなっているT2スタジオのギシギシ軋む階段を上がると会議テーブルとパイプ椅子の受付があり、受付の女性(おそらく当時シアタープラン・TERRAに属し、中野のスコピオ・プロジェクトでも仕事をしていた額田葉子さんと思うが、記憶退行により確証はない)の脇に、同じ年のパフォーマンス・フェスティバル・イン・檜枝岐でも顔を合わせたばかりのプロデューサー及川廣信氏が、グレイのスーツ姿で立っていた(これも確かではない)。今日のスタジオPACの外観には、当時を偲ぶものは感じられなかった。

着席し『f/F・パラサイト』がスタートした瞬間から、異次元に叩き込まれ突き落とされた。22歳の若造にとっては瞬間瞬間、心傷を受け続けるような体験であり、とても評者のような客観的な見方ができるものではなかった。終演(それも場内に拍手が起こってそれと気づいたのだが)の時には、まるで白昼夢を無理矢理醒まされたような気分だったことを覚えている。ある評で「悪夢」と書かれていたが、まさに醒めない悪夢を見続ける契機になったとも言える。

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今日のモレキュラーしか知らない人には想像がつかないかも知れないが、この時には、全員が山台の上からポーズを取って(土蜘蛛のように見えた)降りてくるカーテンコールがあった。しかも正面を見据えたまま頭を下げずにゆっくりと腰を曲げる奇妙な「お辞儀」を伴って。能楽の土蜘蛛は糸を放つが、パラサイトは精液(白い液体)を吐いていた。

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このカーテンコール時にかかっていた音楽は「Please Mr. Postman」だが、いま憶うとThe Marvelettes(1961)のそれではなく、The Beatlesのカバー(1963)のほうだったような気がする。単なる客出しBGMではなく、ここに豊島の「気づいてくれよ」ヒント+舞台袖で客席の様子を見て「ニヤっと嗤う」仕掛けがあったことに気づくのは、20年後である。numeratorに寄生(parasite)するdenominatorとしてのPostmanとは。

終演後、10畳ほどのロビーで、豊島による女優の紹介がされた後、名指しでコメントを求めていく一幕があった。芝居を知らぬ若造にとってすら「無難」に感じられるようなコメントが続く中、シアタープラン・TERRAの大塚(由美子)さんだけは「芝居がはねた後すぐにコメントは言えない(言わないことにしている)」というような内容の発言をしていたことが、強く印象に残っている。その後、暗い石神井川の河畔を歩いて氷川台駅に戻り、当時棲んでいた東長崎に帰った筈だが、帰り道の記憶はまったくない。

転形劇場は1988年に解散するが、理由として「T2スタジオの経済的負担」があったとも書かれている。

ポストマンと言えば、David Brinによる終末SF小説「The Postman」が出版されたのが、前年1985年だ。生存し続けるために欺瞞を続ける「成り済まし」郵便配達員が主人公だが、ある日偶然ポストマンになり郵便制度を復活させるとホラを吹いてしまう、という部分には、今日からすると何かしら符牒のように感じるところもある。The Postmanは、1982年の「The Postman」と1984年の「Cyclops」からなる小説だが、15年後にケビン・コスナー監督で実現した映画「ポストマン」は未だ観ていない。漏斗を冠ったパラサイトを正面から見るとCyclops的でもある。

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ポストマンについての言及があり、豊島も参照したに相違ないD/Gの「Kafka: Pour une litterature mineure」が出たのは1975年、誤訳の指摘も多い邦訳が発行されたのが1978年であり、新潮社からカフカ全集(第9巻が「手紙」)が発行されたのが1981年だった。当時少しだけD/Gを齧っていた私は『f/Fパラサイト』を観た数日後、あれは「機械」が出現した場ではなかったかとようやく思い至ることになる。いま読み直してみると、モレキュラー的に気になる記述が散見される。この瞬間は手元にないこともあり、ここで「カフカ —マイナー文学のために」の詳細に触れることはしないが、不完全ながら引用しておく。

カフカにとって関心があるのは、意味論的に作られた、構成された音楽ではなく純粋な音のマチエールである。(p6)

カフカの関心をひくものは、常におのれ自身の廃棄と関連している、強度の高い純粋な音のマチエール、非領域化した音楽的な音、意味作用・構成・歌・言葉を欠いた叫び声、まだあまりにも意味作用的な連鎖の束縛から脱するための、断絶状態の音響性である。音において重要なのは強度だけである。それは、一般的には単調で、常に無意味な強度である。(p7)

カフカが自分のために生き、実験することは、手紙を倒錯的に、悪魔的に用いることである。(p55)

すべてのブロックはその背後にそのブロックの数だけの隣接した裏口を持っている。これはカフカにおいて最も驚くべき地形学であり、それは単なるひとつの《精神的な》地形学ではない。対蹠的なところにある二つの点が、奇妙に接触していることが明らかにされる。(p151)

未だに、頭の中では「15日前の・・・!」「私の妹が・・・!」(実際には後者では「ゎクたああスしぃ、のぉお、いもぉとがぁぁ!」のように発話されていた)といったモレキュラー女優陣による朗読が渦巻いている。当時、日本に上陸した最初のサンプラーEnsoniq Mirageを所有していた私は、「私の妹が」をサンプリングし、phaserをかけながら4チャンネルスピーカー間をドップラーよろしく渦のように移動させる、といった遊びを大学でしていた。もはや時効だろうが、サンプリングできる=つまり『f/Fパラサイト』の上演をこっそり(Walkmanで)録音していたわけだ(笑)。渦といえば、T2スタジオでの『f/Fパラサイト』のときには、八戸でUZUを組織していた吉井直竹が音楽として参加していた。

舞台上では、あらかじめ女優の朗読を録音していたカセットテープのテープだけを引き出して山台の縦面にそれぞれ貼付けたものを、カセットデッキから取り出されたヘッド部分でPostmanたちが「こすり」、合成樹脂上に塗布された磁性体に信号として記録された声=音響が「トレース」され会場内のPAを通じて拡声・再生される、という一連の行為が行われていた。この様子は、直ちに同じ1986年8月に開催されたパフォーマンス・フェスティバル・イン・檜枝岐における粉川哲夫のパフォーマンス『ウォーキング・ダウン・ジ・エレクトロニック・ストリート』を想起させる。これが行われた会場=檜枝岐公民館に豊島もいたように記憶している。この『ウォーキング〜』については、たとえば粉川哲夫の「スペースを生きる思想」に詳しく書かれているが、一部を引用しておく。

これは、機能的には、テープレコーダーという完成された装置を露出させてみたわけですね。露出させて、その間に生身の身体を介在させてみたわけです。テープは普通、モーターがまわして、それがヘッドをこすり、音が出るわけですが、逆にテープを固定しておいて、ヘッドを動かしてみたらどうかというのがこの実験のハード面です。

やりながら痛感したのは、やはり身体の不確定性でした。普通に棒を押していくと、とてもまともな音にはならないのです。あらかじめ入れておいた音は出ないのです。あらかじめ入れておいた音を、鮮明な音で出すには、身体をまず機械にしなければならない。突っ張らせていかなければならないということです。そのかわり、身体をこわばらせながらテープをトレースすれば、モーターの場合と同じような音を出すことはできるのだけども、その時ほど身体が一種の機械になってしまうことはありません。硬直してしまうのです。しかし、逆に身体が非常にしなやがで非常にリラックスした状態でこのテープの上をこする場合には、非常に抽象的な面白い音が出ます。ランダムな音が出るわけです。つまり、身体が身体であるときのほうが表現は多様化する。

ここから、身体の解放とは何なのか、ということを考えることができるかもしれません。身体は、歴史的に、体操をとってみてもそうですが、身体を機械に似せていくというかたちで管理されてきたわけです。それに対して身体を解放するということはどういうことなのか。しかもそうした拘束から解放された身体が、芸術創造のようなものと結びつく瞬間とはどういうときなのか。このパフォーマンスのねらいは、いま考えるとそういうところにあったのです。

これはかなり反応があって、八戸の豊島重之は、テープレコーダーのヘッドでテープをこするというぼくの方法を彼のモル・シアターの出しもの(たとえば『f/F・パラサイト』)のなかで使っています。ああいった「引用」を誘発できたのはうれしいですね。

(「スペースを生きる思想」/筑摩書房/1987より)

この1986年は、チャレンジャー号爆発、最後の江戸人泉重千代死去、青函トンネル開通、岡田有希子自殺、米によるリビア爆撃、チェルノブイリ原発事故、衆議院「死んだふり」解散、東北地方で初の電話市外局番三桁化、道交法改正によるシートベルト義務化、三原山噴火、有楽町三億円事件、ビートたけしフライデー襲撃事件、記録的大雪などがあった年で、『f/Fパラサイト』上演中の10月11日にはレーガンとゴルバチョフ(書記長)が会談していた。「亭主元気で留守がいい(金鳥)」「街の遊撃手(いすゞジェミニ)」といったコピーが流行り、「天空の城ラピュタ」が公開され、「芸術はバクハツだ!(岡本太郎/流行語語録賞)」と喝をいれられるも、史上初めて年間を通じて芥川賞該当作品なしという「何となく・・・になりつつあると感じられる」状況だったと記憶する。

米国では、1985年9月にAppleを「追放」されたスティーブ・ジョブズがNeXT Computer社を創業し、ロス・ペローの出資を受けて、1988年10月12日の伝説的な発表に至る過程にあった。今日のMacOSXのベースとなるOS「NeXTSTEP」(後にOPENSTEP)はこの時期に開発され、発売されたNeXT Cube(とNeXTSTEP)を用いてティム・バーナーズ・リーが開発したWeb、つまりWorldWideWebが1991年2月26日に発表される。2009年現在の事象の萌芽のひとつは、この時期にあったと言っても過言ではあるまい。

『f/Fパラサイト』にせよ『ウォーキング・ダウン・ジ・エレクトロニック・ストリート』にせよ何にせよ、楔はこの時期にグサッと打ち込まれていたわけだが、未だ楔は抜けきっていないのではないか。「届かなかった手紙」や「書かれなかった手紙」についてもまだ解決してはいないが、「時代」まで見ていくとまたしても妄想が暴走していくので、妄想は続けつつも一度筆を置くことにする。

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