視差の失効の示唆

八角聡仁は、1999年に次のように書いた

一九九四年、豊島重之とモレキュラーシアターは、俳優の顔に装着した漏斗(ジョーゴ)と、舞台の前面を覆うブラインドを二枚あわせに用いて、「目の映画」を「耳の演劇 Secretary/Secretory」へとパサージュする。前述の『フィルム』についての豊島の言葉をそのまま使えば、漏斗は「世界の遠近法/世界という遠近法を根底から狂わせてしまうパララックス=視差の失効」をもたらし、ブラインド(blind)は文字どおり盲目を見せる/盲目が見ることにおいて、「見ることの不能をまるごと〝見ないことの不能〟に全面転回」する(反)装置となる。(「モレキュラーシアター『HO-koriの培養・Ⅱ』のためのノート」より)

刺激的かつ示唆に富んだテキストだが、ここで示唆されている内容を考えるためには、視差についてもう少し知る必要があるかもしれない。「漏斗と冗語」の関係とは異なるが。

ここではパララックスとあるが、少し調べてみると両眼視差には、

  • Binocular parallax(両眼視差)
  • Binocular disparity(両眼像差)

の二種類があるようだ。さらに、擬似両眼視差、擬似運動視差、単眼運動視差などいくつかの種類(?)についての記述が見つかる。研究されている学問分野も、視覚光学、視覚神経科学、心理物理学、大脳生理学、認知科学、視覚情報処理、基礎工学・・・等々とかなり多岐に渡っている模様であり、それらすべてを概観することはできていない。両眼性奥行き抽出細胞 (binocular depth cell)なども近年発見されている。

国立情報学研究所論文情報ナビゲータ[サイニィ]で検索してみると、藤井芳孝氏と金子寛彦氏による「単眼視野と両眼視野の境界における奥行き知覚の連続性」という論文がみつかった。これには「両眼視野の両眼視差による奥行きが単眼視野に外挿される」との記述もあり好奇心をそそられる。また産総研のウェブでは「空気中の3次元空間に輝点を作る技術として、レーザー光を空間中の1点に強く集光させ焦点近傍の空気をプラズマ化して発光させる技術」についての記事があり、メディアアート的な視点からすると興味深い。

しかしながら、このような知覚および科学における問題と豊島が指摘し提起するそれとは、次元を異にしていることは言うまでもない。

視点を変えてみる。
ここでは世界の遠近法/世界という遠近法」を根底から狂わせるものについて視覚における問題が語られているが、聴覚から考えた場合はどうなるのか。美術、哲学、思想、文学などにおいて取り上げられてきた(いる)「遠近法」と同じレベルの概念が聴覚において存在するかどうかについては、寡聞にして知らない。

視差は奥行きや距離の知覚を生じさせるものでもある。視覚聴覚それぞれにおいて、奥行きや距離の知覚を生じさせるメカニズムを比較してみたらどうなるか。

視覚:両眼の「輻輳」(視線=輻輳角)による距離(奥行き)知覚
聴覚:?

視覚:両眼の「視差」による距離知覚
聴覚:「両耳間の音圧差、時間差、相関係数」

視覚:?
聴覚:単耳の「直接音と間接音の音圧の比」による距離知覚

視覚:単眼の「調節機能」「透視変換」「運動視差」「視野」等による距離知覚
聴覚:?(あるらしい)

視覚:単眼の「親しみのある大きさ」による距離知覚
聴覚:単耳の「音の大きさ」による距離知覚(「親しみ」がある前提で)

視覚:「大気遠近法」による距離知覚
聴覚:単耳の「音色」による距離知覚(高周波成分等)

上記の「?」にはまだ調べきれていない項も含まれているが、なかなか興味深い。80年代のHugo Zuccarelliによるホロフォニクスなども想起される。この辺りを突き詰めていくと、聴覚における「見ることの不能をまるごと〝見ないことの不能〟に全面転回する(反)装置」つまり「聴くことの不能をまるごと〝聴かないことの不能〟に全面転回する(反)装置」について、考えてみることもできるかもしれない。

ただし、八角前掲テキスト豊島前掲テキストで語られている「膜」「膜面」という概念を、直ちに、音響処理上の手法、たとえばAcousmoniumなどのような再生装置等による音の「面」、あるいは位相処理および音響物理学の研究による三次元立体音響における「面」などと結び付けることは、安直に過ぎる。(これらの手法やそれによる作品自体に意味がないという話ではなく)

立体音響といえば、かつて日本で多元立体音響音楽を推進した団体・運動・イベントが、豊島らが1983/1986年に行ったイベントと同名のTATA(前者は正確には「TATAトポロジカル・アート東京」で同じく1983年前後)だった。もちろん単なる符号に過ぎないが・・・。ちなみに、TATAを主導していた東京学芸大学(当時)の故住谷智は、1961年9月3日の《土方巽DANCE EXPERIENCEの会》の音響も担当していた。

RCA_TH_EP6

渋谷慶一郎と池上高志のコラボレーションによる『フィルマシン』(フィルム+マシン。まさに「フィルム」)は、国内外で高い評価を受けているようだ。渋谷と池上によれば、

index

filmachine[= film+machine] は、音楽の持つ時間/空間/運動構造を生成する人工的な音響空間であり、マシンである。
(中略)
全体のコンポジションは、こうした膜 [film] 的なものと、テープとマシン [machine]のモデルから生成された、複雑な時間構造を持つサウンドファイルの組み合わせ、そこに3次元の運動パターンを与えることで構成されている。現象学者フッサールが、主観的知覚構造の基底をなすものとして、縦の志向性と横の志向性のネットワークを論じている。縦の志向性とは、ここでいう空間構造であり、横の志向性とは時間構造である。空間構造は、ここで作られる3次元の円柱表面だけではなく、知覚における空間性、つまり記憶と身体性が織りなす知覚の構造である。これらは知覚の実験装置であり、コンピュータ技術と進化の方法論を融合して作り出された、第三項音楽の進化形態、音響構造が生成する空間/時間である。
(中略)
つまりfilmachineとは、音の膜を生成するmachineであると同時に、サウンドによる空間/時間構造をつくる内部観測者的machineでもある。

とのことで、この種の試みの中では抜きん出た成果を示しているものとして、興味深く思う(残念ながらフィルマシンを実体験してはいないが)とともに、豊島が提起し提示してみせる問題に対するカウンターとしては、ほかの方法を考える必要があるのではないかと思う。

斯くして妄想は続く。

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