訃報

January 8, 2019

モレキュラーシアター演出/芸術監督(ICANOFキュレーター/ダンスバレエリセ豊島舞踊研究所主宰・精神科医)の豊島重之氏が、2019年1月6日(日)に急逝されました。
ここに謹んで深く哀悼の意を表します。(根本忍)

モレキュラー前夜

January 9, 2019

1980年5月、前年(より厳密に云えば6ヶ月前)は「五百羅漢」と名乗っていた(更にその9ヶ月前には「続々・恋迷路変」だった)八戸のと或る劇団が、ロックシアター「千年王国」と名前を変え、下北沢マーケットにて皆目へのへのもへじ》演劇公演を行った。

作・演出は豊島重之
豊島舞踊研究所創始者の舞踊家・故豊島和子や現モレキュラー代表の高沢利栄の名前も見える。
これが、毎年の如く名称が変わる豊島が率いる劇団の「初東京公演」だった。

この上演に来場し立ち会ったのが『肉体言語』誌を発行していた肉体言語舎の面々であり、そこで生じた豊島と肉体言語舎との関係性は、その後1986年の「モルシアター」「豊島重之+モルシアター」としての東京アートセレブレーション及びパフォーマンス・フェスティバル・イン・檜枝岐への参加、並びに「劇団モルシアター」としての伝説的な《f/F・パラサイト》上演に、そして翌1987年の「モレキュラー・シアター」結成へと結実していくことになる。

 

公式サイト魚拓:モレキュラー近況《島守探訪ノート》(豊島重之)

January 8, 2019

閲覧不可となったmolecular-theatre.jpの魚拓その1
下の画像をクリックすると、当該記事のPDFファイルが表示されます。

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公式サイト魚拓:《nino-maii sequential bis》(豊島重之)

January 8, 2019

閲覧不可となったmolecular-theatre.jpの魚拓その2
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公式サイト魚拓:いよいよ迫る!《にのいち NINO-ICHI》上演!(豊島重之)

January 8, 2019

閲覧不可となったmolecular-theatre.jpの魚拓その1
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デコンタでモル

August 20, 2016

ここに一枚のコピーがある。
1991年2月5日

曰く「私共は、TATA86フェスティバル以来、常に上演とトークを並行させつつ、演劇が演劇でなくなろうとする瞬間、その瞬間における言語の特異なあり方に注目してきました。それは演劇のみならず、すべてのアートを貫く現在的課題のように思われます。」

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TATA86フェスティバル?
上演された作品はこれだ。

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モルシアター《パラサイト》(@金浜海岸うみねこライン沿い・白い巻貝の砦)の前作《一/四》Ⓟテス

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同じく《一/四》より白山敦子 Ⓟ会田健一郎

そして1986年と云えば・・・

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《f/F・PARASITE》©ISA, Shigeyuki TOSHIMA and The Molecular Theatre

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《f/F・PARASITE》©ISA, Shigeyuki TOSHIMA and The Molecular Theatre

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《f/F・PARASITE》©ISA, Shigeyuki TOSHIMA and The Molecular Theatre

言うまでもなく、モルシアターがモレキュラーシアターと呼称を「変え」、更に、及川廣信プロデュースによる《f/F・PARASITE》@T2スタジオを引っさげて「起動」した年でもある。

それから30年が経過した(らしい)。

改築工事に伴う八戸市美術館の閉館のため、今年で一旦「ナカ締め」となるというイカノフ企画展のチラシにモレキュラー30周年の記載は見当たらない・・・と思ったら、思わぬところに潜んでいた!

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8月27日(土)18時〜

モレキュラーシアター公演(9分11秒+3分11秒)
『カリヲのキバ
〜ハエを呑みこむ口が、ハエの口に呑みこまれるにはどうすればいい』

これを体験せずに「五年目の夏」を終わらせることは出来まい。
直ちに予約されることをオススメする。

 

妄想の空隙/空隙の妄想

June 10, 2014

妄想子が脆くも妄想の空隙の泥炭地に脚を囚われている内に、何時の間にやら数年間ほど時間が経過していたようだ。遠く島守盆地北方からの風の噂によれば、今夏にも亦モレキュラーに動きがあるらしい。妄想力を鋭意再駆動したい。

地の狭間で打ち震える夏

January 15, 2013

今年の夏、モレキュラーが再び蠢くらしい、との話が入ってきた。
とすれば、モレキュラーの動きが予測できてからこの夏の予定を組む必要がありそうだ。

モレキュラーシアター《にのいち》より ©molecular theatre

モレキュラーシアター《にのいち》より
©molecular theatre

にいちがに

November 17, 2012

訪八新幹線車中にて微睡みながらの妄想。

モレキュラーシアター《にのいち》について、豊島重之は

南郷を訪れた方なら、きっと虚空蔵=龍興山に山伏や忍者の面影を偲んだはず。そう、「くノ一」の消滅・失踪(disparition ディスパリシヨン)の技法を。「九から二まで」縮減(soustraction スゥストラクシヨン)する秘法を。あるいは「ニーニョ」「ニーニャ」なら酷暑・冷夏をもたらす異常気象。だったら「イチ」って何の位置? さあ、どうやって姿を消すのか、お試しあれ!

ゼロ年代モレキュラー東京公演の全作に一貫する特色をひとつ挙げるとしたら、それは「盲目性の身体表現」がいつもどこかに仕掛けられていることだろう。すなわち観客の視野からふと外れてしまう「out of sight」、それを企む出演者に要請されるのは「盲力=blind sight」なのだ。ダンスや演劇など舞台芸術において最も肝腎なのは、生々滅々する環界を見渡す視力ではなく、みえないものを察知する「盲力=blind sight」を動きの現働力とすることである。

書いた

ここにはディスパリシオンはあるが、アパリシオンがないように見える。
つまり、出幻/亡者自体が「失踪」している。

いつも葉書それ自体はここには決して届かず、
ディスパリシオン=消印だけが一斉に到来する。
アパリシオン=亡者たちのひしゃげた泳法。

と嘗て書いた(『パンタナルからイスムスへ』)豊島にあって、何が起こっているのか。

勿論、喪の可能性/不可能性、或いは集約的再喪失にも想いが走る。

だが直ちに、レヴィナス、ランボー、ブランショ、ギブスン、バルト、デリダ、吉増剛造、黒田喜夫、ラカン、そしてドゥルーズが襲来/到来してくるこれらのテクストから妄想するに、従前よりも一見懇切丁寧に「ヒント」を与えつつも、然しその実、従前よりも一層深いフチ=縁=淵=不知の地に、氏は足を踏み入れたのではあるまいか。

夢に
手足のない
蜘蛛たちが来て
戸口を
叩く
わたしたちにも
織らせて

(吉増剛造『何処にもない木』)

妄想子にあっては、ディスパリシオンといいスゥストラクシヨンといい、1945年にTârnăveniと再ー命名されたTransylvaniaのDicsőszentmártonに生を受け、六歳にしてCluj-Napoca=Kolozsvárに移り、ハンガリー語/ルーマニア語/ロマ語/ドイツ語の坩堝に翻弄され、その出自=ユダヤ系が故に家族がそれぞれ強制収容所に送られた挙句、父をアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で、弟をマウトハウゼン強制収容所で喪った作曲家ジェルジ・リゲティのアパリシオン=『Apparitions(1958-59)』が想起されてならない。

リゲティのアパリシオンとは何か。
豊島の云うアパリシオンとは何だったのか。

生き生きとした、私のものである、唯一のものであるはずの身体は共通の場(=一般通念)でしかなく、自律化した思惟や理念的実体が集合する空間でしかないのだから、それ自体“幽霊たちの身体”(Leib der Gespenster)ではないのか、というわけである。
(デリダ『マルクスの亡霊たち』)

どうもモレキュラーは、《にのいち》に於いて、「自らの形態を乗り越えてしまい」「われわれがいる世界のなかに光として包摂されるような別の世界を我々に与えてはくれない」もの、「他なる存在としての存在の領分なのだが、この存在は、照明された世界をわがものとして把持する自我の自己同一性には転換不可能である」もの、「光の世界を引き裂き、世界のうちに他性と彼方を導き入れる」もの(以上、エマニュエル・レヴィナス『発話と沈黙』より引用)を、ターゲットのひとつとしているようにも思えてくる。

これは「音」(の音性)である。

盲目性は不可能性の接線とも時折交差するが、ジャン=リュック・ナンシー『フクシマの後で 破局・技術・民主主義』に於いて指摘される「非等価性の肯定」は、その「不可能性」の可能性を問うことにも何処かで繋がるのではないか。豊島の云う、みえないもの/みることが叶わないものを察知する「盲力を動きの現働力とする」ことにさえも。

静止した群影のうえに鐘の音がひびいたが
(呼び醒ませ、動け、舞いだしてくれ)
動かない、声もない、鐘の音だけがたかく、耳もとに迫
ってきたと思うと、醒めていったのはおれだ。声をあ
げ、もがき醒めたのはおれだ。

(黒田喜夫『兵士の死』)

更に、豊島は「「に」と「いち」は決して切り離しえない」とも書いているが、「切り離しえない」とは即ち「一体」であることでもあり、一体=一タヒ=死と読み替えることもできよう。

とすれば、〈私〉というひとりの他者に於いて可能なことの不可能性/不可能なことの可能性としての死に言及したレヴィナスと、或いは「死とは現在を欠いた時間であり,私はこの現在を欠いた時間に何の関わりも持っていない」としたブランショと、或いは「私たちは自らを、死に負っている」と綴ったデリダとも「近接」してきはしまいか。妄想は尽きない。

豊島が、陸前・陸中・陸奥・下北を「災厄裂島=コモリク」とするなら、島守もまたコモリクである。

とすれば、本日明日の南郷島守モレキュラー公演に、何を措いてもマニアは馳せ参じなければなるまい。
縮地の法を使って。

コモリク=隠口/隠国の枕詞は泊瀬であり、泊瀬=初瀬=長谷→馳である。初瀬山は死者が向かう地=幽界/異界への扉=「接続詞」でもあることは、最早付言するまでもあるまい。

隠口乃
始瀬山者
色付奴
鐘礼乃雨者
零尓家良思母

(大伴坂上郎女『万葉集』巻八 一五九三)

錫杖銀龍

August 20, 2011

本年一月の〈のりしろ〉公演に続き、晩秋、北方に動きがある。

三月十一日以後に遍在・併存する「複数の時間」の中で、たとえばカトリーヌ・マラブーの言うところの「可塑性」=形を与える能力/形を受け取る能力、或いは解釈や物語化によっては対抗し得ない/治癒し得ない「傷」、或いは「痕跡」といった問題を考える好機になる、かも知れない・・・。


ダンス・バレエ・リセ 豊島舞踊研究所 第55回記念発表会

ギンリョウのたびだち ―豊島和子追悼公演

10月23日(日)
八戸市公会堂大ホール
入場無料
13〜17時頃

そもそも「ギンリョウ」とは如何なる意味を持つものか。

ダンス・バレエ・リセ芸術監督=モレキュラーシアター演出家の豊島重之のもと、モレキュラーシアター大久保一恵田島千征による追悼作品が上演されるほか、及川廣信根本忍橋本晋哉による豊島和子追悼特別公演も予定されている。

とすれば、モレキュラーマニアは10月の八戸行きを計画せざるを得まい。