デコンタでモル

August 20, 2016

ここに一枚のコピーがある。
1991年2月5日

曰く「私共は、TATA86フェスティバル以来、常に上演とトークを並行させつつ、演劇が演劇でなくなろうとする瞬間、その瞬間における言語の特異なあり方に注目してきました。それは演劇のみならず、すべてのアートを貫く現在的課題のように思われます。」

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TATA86フェスティバル?
上演された作品はこれだ。

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モルシアター《パラサイト》(@金浜海岸うみねこライン沿い・白い巻貝の砦)の前作《一/四》Ⓟテス

mol_1:4_1986

同じく《一/四》より白山敦子 Ⓟ会田健一郎

そして1986年と云えば・・・

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《f/F・PARASITE》©ISA, Shigeyuki TOSHIMA and The Molecular Theatre

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《f/F・PARASITE》©ISA, Shigeyuki TOSHIMA and The Molecular Theatre

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《f/F・PARASITE》©ISA, Shigeyuki TOSHIMA and The Molecular Theatre

言うまでもなく、モルシアターがモレキュラーシアターと呼称を「変え」、更に、及川廣信プロデュースによる《f/F・PARASITE》@T2スタジオを引っさげて「起動」した年でもある。

それから30年が経過した(らしい)。

改築工事に伴う八戸市美術館の閉館のため、今年で一旦「ナカ締め」となるというイカノフ企画展のチラシにモレキュラー30周年の記載は見当たらない・・・と思ったら、思わぬところに潜んでいた!

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8月27日(土)18時〜

モレキュラーシアター公演(9分11秒+3分11秒)
『カリヲのキバ
〜ハエを呑みこむ口が、ハエの口に呑みこまれるにはどうすればいい』

これを体験せずに「五年目の夏」を終わらせることは出来まい。
直ちに予約されることをオススメする。

 

妄想の空隙/空隙の妄想

June 10, 2014

妄想子が脆くも妄想の空隙の泥炭地に脚を囚われている内に、何時の間にやら数年間ほど時間が経過していたようだ。遠く島守盆地北方からの風の噂によれば、今夏にも亦モレキュラーに動きがあるらしい。妄想力を鋭意再駆動したい。

地の狭間で打ち震える夏

January 15, 2013

今年の夏、モレキュラーが再び蠢くらしい、との話が入ってきた。
とすれば、モレキュラーの動きが予測できてからこの夏の予定を組む必要がありそうだ。

モレキュラーシアター《にのいち》より ©molecular theatre

モレキュラーシアター《にのいち》より
©molecular theatre

にいちがに

November 17, 2012

訪八新幹線車中にて微睡みながらの妄想。

モレキュラーシアター《にのいち》について、豊島重之は

南郷を訪れた方なら、きっと虚空蔵=龍興山に山伏や忍者の面影を偲んだはず。そう、「くノ一」の消滅・失踪(disparition ディスパリシヨン)の技法を。「九から二まで」縮減(soustraction スゥストラクシヨン)する秘法を。あるいは「ニーニョ」「ニーニャ」なら酷暑・冷夏をもたらす異常気象。だったら「イチ」って何の位置? さあ、どうやって姿を消すのか、お試しあれ!

ゼロ年代モレキュラー東京公演の全作に一貫する特色をひとつ挙げるとしたら、それは「盲目性の身体表現」がいつもどこかに仕掛けられていることだろう。すなわち観客の視野からふと外れてしまう「out of sight」、それを企む出演者に要請されるのは「盲力=blind sight」なのだ。ダンスや演劇など舞台芸術において最も肝腎なのは、生々滅々する環界を見渡す視力ではなく、みえないものを察知する「盲力=blind sight」を動きの現働力とすることである。

書いた

ここにはディスパリシオンはあるが、アパリシオンがないように見える。
つまり、出幻/亡者自体が「失踪」している。

いつも葉書それ自体はここには決して届かず、
ディスパリシオン=消印だけが一斉に到来する。
アパリシオン=亡者たちのひしゃげた泳法。

と嘗て書いた(『パンタナルからイスムスへ』)豊島にあって、何が起こっているのか。

勿論、喪の可能性/不可能性、或いは集約的再喪失にも想いが走る。

だが直ちに、レヴィナス、ランボー、ブランショ、ギブスン、バルト、デリダ、吉増剛造、黒田喜夫、ラカン、そしてドゥルーズが襲来/到来してくるこれらのテクストから妄想するに、従前よりも一見懇切丁寧に「ヒント」を与えつつも、然しその実、従前よりも一層深いフチ=縁=淵=不知の地に、氏は足を踏み入れたのではあるまいか。

夢に
手足のない
蜘蛛たちが来て
戸口を
叩く
わたしたちにも
織らせて

(吉増剛造『何処にもない木』)

妄想子にあっては、ディスパリシオンといいスゥストラクシヨンといい、1945年にTârnăveniと再ー命名されたTransylvaniaのDicsőszentmártonに生を受け、六歳にしてCluj-Napoca=Kolozsvárに移り、ハンガリー語/ルーマニア語/ロマ語/ドイツ語の坩堝に翻弄され、その出自=ユダヤ系が故に家族がそれぞれ強制収容所に送られた挙句、父をアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で、弟をマウトハウゼン強制収容所で喪った作曲家ジェルジ・リゲティのアパリシオン=『Apparitions(1958-59)』が想起されてならない。

リゲティのアパリシオンとは何か。
豊島の云うアパリシオンとは何だったのか。

生き生きとした、私のものである、唯一のものであるはずの身体は共通の場(=一般通念)でしかなく、自律化した思惟や理念的実体が集合する空間でしかないのだから、それ自体“幽霊たちの身体”(Leib der Gespenster)ではないのか、というわけである。
(デリダ『マルクスの亡霊たち』)

どうもモレキュラーは、《にのいち》に於いて、「自らの形態を乗り越えてしまい」「われわれがいる世界のなかに光として包摂されるような別の世界を我々に与えてはくれない」もの、「他なる存在としての存在の領分なのだが、この存在は、照明された世界をわがものとして把持する自我の自己同一性には転換不可能である」もの、「光の世界を引き裂き、世界のうちに他性と彼方を導き入れる」もの(以上、エマニュエル・レヴィナス『発話と沈黙』より引用)を、ターゲットのひとつとしているようにも思えてくる。

これは「音」(の音性)である。

盲目性は不可能性の接線とも時折交差するが、ジャン=リュック・ナンシー『フクシマの後で 破局・技術・民主主義』に於いて指摘される「非等価性の肯定」は、その「不可能性」の可能性を問うことにも何処かで繋がるのではないか。豊島の云う、みえないもの/みることが叶わないものを察知する「盲力を動きの現働力とする」ことにさえも。

静止した群影のうえに鐘の音がひびいたが
(呼び醒ませ、動け、舞いだしてくれ)
動かない、声もない、鐘の音だけがたかく、耳もとに迫
ってきたと思うと、醒めていったのはおれだ。声をあ
げ、もがき醒めたのはおれだ。

(黒田喜夫『兵士の死』)

更に、豊島は「「に」と「いち」は決して切り離しえない」とも書いているが、「切り離しえない」とは即ち「一体」であることでもあり、一体=一タヒ=死と読み替えることもできよう。

とすれば、〈私〉というひとりの他者に於いて可能なことの不可能性/不可能なことの可能性としての死に言及したレヴィナスと、或いは「死とは現在を欠いた時間であり,私はこの現在を欠いた時間に何の関わりも持っていない」としたブランショと、或いは「私たちは自らを、死に負っている」と綴ったデリダとも「近接」してきはしまいか。妄想は尽きない。

豊島が、陸前・陸中・陸奥・下北を「災厄裂島=コモリク」とするなら、島守もまたコモリクである。

とすれば、本日明日の南郷島守モレキュラー公演に、何を措いてもマニアは馳せ参じなければなるまい。
縮地の法を使って。

コモリク=隠口/隠国の枕詞は泊瀬であり、泊瀬=初瀬=長谷→馳である。初瀬山は死者が向かう地=幽界/異界への扉=「接続詞」でもあることは、最早付言するまでもあるまい。

隠口乃
始瀬山者
色付奴
鐘礼乃雨者
零尓家良思母

(大伴坂上郎女『万葉集』巻八 一五九三)

錫杖銀龍

August 20, 2011

本年一月の〈のりしろ〉公演に続き、晩秋、北方に動きがある。

三月十一日以後に遍在・併存する「複数の時間」の中で、たとえばカトリーヌ・マラブーの言うところの「可塑性」=形を与える能力/形を受け取る能力、或いは解釈や物語化によっては対抗し得ない/治癒し得ない「傷」、或いは「痕跡」といった問題を考える好機になる、かも知れない・・・。


ダンス・バレエ・リセ 豊島舞踊研究所 第55回記念発表会

ギンリョウのたびだち ―豊島和子追悼公演

10月23日(日)
八戸市公会堂大ホール
入場無料
13〜17時頃

そもそも「ギンリョウ」とは如何なる意味を持つものか。

ダンス・バレエ・リセ芸術監督=モレキュラーシアター演出家の豊島重之のもと、モレキュラーシアター大久保一恵田島千征による追悼作品が上演されるほか、及川廣信根本忍橋本晋哉による豊島和子追悼特別公演も予定されている。

とすれば、モレキュラーマニアは10月の八戸行きを計画せざるを得まい。

蹉陀、そして或いは白レ脳裏

April 7, 2011

蹉陀

当初3.11は、地震と津波に因る「震災」と見做された。
だからこそ、範囲/規模などに係る過去の天災との比較も行われた。
例の如く、本質を弁えぬ意味不明のお涙頂戴ワイドショー的な報道も散見された。
復興への長い道を歩き出すか、とすら思われた。

瓦版に掲載された鯰絵

だが、時間が経つにつれ、様相が変わる。

放射性物質の拡散(継続)に係る「危険」として、少なくとも今後数十年間我々が強制的に背負わされる(た)「負債」として、事実隠蔽/風評/政治機能不全などに伴う「経済的失速」の懸念として、社会/権力構造等を含めこの「国の状況」を醜く露呈させるものとして、漸く認識されつつある「未曾有の事態」「国家的危機」として・・・。

而もこれは現在進行形であり、まだ「始まったばかり」である。
いや、柴野徹夫『原発のある風景』(未来社/1983)を読むまでもなく「既に始まっていた」のだ。

この期に及んで、何故か未だ「非常事態宣言」が出されない。
この期に及んで、醜悪な「隠蔽」「情報戦」が展開される日常がある。

勿論デマ/ガセも渦巻いてはいるが、被災地に入った私から言わせれば、当該情報戦に参画する/戦況を眺めることすら叶わない被災者や「情報弱者」等と「現実」との乖離は、3.11以前よりも拡大しているのだ。
放射性物質拡散(地域)に係る予報然り、汚染水海洋放出の件然り、汚染食料等の摂取の件然り、年間被曝限度量基準値引き上げの件然り、被災地の現状然り。
黒い真綿でじわじわと絞首されている状況は、既に三週間に及ぶ。

また、非常事態宣言が出されないがために、既存の法律・規制等を超える対応、例えば(救援物質山積と報道されているにも関わらず)ヘリからの食料救援物資投下等を行えない、といった状況も見られる。

結果として、被災地は益々被災し、抑止されるどころか被害は拡大傾向にある。

まさに「情報」の意味性/語源=情勢報告を意識せずには居られない状況であり、尚且つ「直ちには安全性に問題ない」「公表すべきだった」等の呆言に接すると、其処に或る卑劣な故意/恣意性も感じざるを得ない。

西谷修一が「アフター・フクシマの情報ブラックボックス」で参照を促した「福島原発に関する報道規制及び言論統制状態まとめ」や「放射能汚染の広がりは隠しきれない ~NO!大震災翼賛会・大連立」などを読むと、情報のみならず、言論/思想統制=「余震」が忍び寄ってくる気配をも感じる想いがする。

2011年4月4日の国内報道より

これを機にとばかりに、意図的とも思える史実の「捩じ曲げ」やドサクサまみれの愚行なども目にするようになり、日本船舶寄港拒否等の問題も含め、この国はいま着実に「孤立」しつつある。
一部の周章狼狽する愚劣無能な為政者によって。

この意味でも、「危機」は、常に既に其処に存在していたのであり、その振幅が極大化傾向にあることを、文字通り直ちに認識し、動かなければなるまい。

閑話休題。
さて、本年1月にモレキュラーシアター演劇公演《のりしろ nori-shiro》が行われたことを、まだ記憶に留めている人もいよう。

下記の「白レ脳裏」と題した妄想文は、3.11以前に書いていたものだ。《のりしろ nori-shiro》についての妄想を綴る途上で3.11に見舞われたため、中断された。

然し乍ら、3.11以前の思考をいまそのまま引き継ぐ/紡ぐことは、最早、私にはできない。今回の事態を踏まえた「思考の地殻/水位変動」を未だ自己において起こすことが出来ないでいるからだ。喫緊の課題である。

よってここでは、震災前に書きかけた妄想文を、そのまま掲示することにする。

白レ脳裏

(1)
かのアポロン=Apollōnをロゴに冠した出光興産傘下の左沢ガソリンスタンドが、「雪で」崩落した。
昭和二十三年、黒田喜夫が初めて入院(国立療養所左沢光風園)した「雪深い地」=左沢でのことだ。

「ガソリンスタンドの屋根が崩落した現場=大江町左沢」/山形新聞Web:2011年02月14日 15:40より引用

左沢/「セラヴィー」より引用

と同時に、エジプトのムバラク政権が「勝利の町」=Miṣr al-Qāhira=カイロにて崩壊した。
その後、各地に連鎖している蜂起雪崩/アバランチは、点から面へ/スラフからスラブへその発生形態を変えつつあるようだ。

と思ったら、米国時間3月3日および4日に、このモレマニやスコマニをホスティングしている米WordPress.comが、同社史上最大規模のDDoS attackを受けて「仮死状態」に陥った。

WordPress stats from techcrunch.com

妄想子宅のネットワークからは、当該攻撃のためにブロックされていたIPを経由する経路でしかWordPress.comにアクセスできなかったため、このブロックが解除された8日まで、管理者としてすらアクセスできない状態が続いていた。

この一連の攻撃は、一部報道によればその大部分が中国からとされているが、いずれにせよWordPress.comのシカゴ、サン・アントニオ、そしてダラスのデータセンタのみならず、周辺のネットワークにも「傷痕を」残したため、回復に時間がかかったようだ。

この攻撃に政治的背景があるにせよないにせよ、まさに「いまここ」にある戦争状態である。

おしまいなんておれたちにはないんだ(黒田喜夫)

(2)
左沢とエジプトでの崩落の丁度一月前、モレキュラーシアター《のりしろ nori-shiro》公演が行われた。

会場は、以前「クイズの聖地」とまで呼ばれた高円寺会館の跡地に建てられた座・高円寺(杉並区立杉並芸術会館)だが、中央線を挟んで反対側には元蚕糸試験場だった蚕糸の森公園が広がる立地であることから、直ちに黒田喜夫の『毒虫飼育』『ウ・ナロード』辺りの連妄想が誘発されたりもする場所だった。抑々甲武鉄道が通された頃は、座・高円寺付近にも桑畑が広がっていたようだ。対する南側=高円寺地名発祥の地方面=桃堂は、文字通り桃の花咲く地であったともいう。

付記すると、座・高円寺隣の駐車場〜隣接する区立第四小学校付近にはかつて鉄池(村田邸の池)と呼ばれた池(呼称由来に池底赤色説あり)があり、環七に沿って南に流れ蚕糸試験場近くで桃園川に注いでいた高円寺川の水源だった(『杉並の川と橋』/杉並区立郷土博物館)という。鉄池には大根洗い場として長年使われた湧水があり、この界隈では「デバ」とも呼ばれていたらしい。桃園川と高円寺川は、いずれも氾濫を繰り返したため暗渠化された。

1950年の桃園川/加瀬竜哉.com「no river, no life」より引用

現在の高円寺川/「暗渠さんぽ」より引用

二本の氾濫する河と池/沼
デジャヴは続く。

《のりしろ nori-shiro》より ⓟMIYAUCHI Akiyoshi ©molecular theatre

虞を捨て仰けから妄想的に断じてみれば、この《のりしろ》は、表象的基板と制度を根本的に問い直し、斜めから見る視線によって新たな問題系を提示しようとしたのではないか。或いは、様々なレヴェルの領有化を巡る衝突/不調和(或いは非衝突/調和)に係るアクチュアルな問題提起と提示によって、脱闘争化/脱政治化に向けた回路構成の動きを強く阻害するものであり、身体と場所/非場所との干渉・共振或いは交換を通じて、内なる潜勢的な力の再起動/再接続を強く要請し、行為と知覚と権力と公共性の問題を黒田喜夫のテクストを用いて現勢的に露呈せしめることによって、弛緩しきった我々の「闘争性」の微かな残り火を焚き付け喚起する出来事=上演だったのではあるまいか。

その意味では、イル/イル、マウスト、バレエ・ビオメハニカのいずれよりも高い境位にあり、モレキュラーのひとつのターニングポイントとなる可能性がある。そう妄想する。

マス・メディアは、真のコンフリクトを偽のコンフリクトに置き換えることによって、ぼくたちをたんなる「観客」の立場に押しやりつつ、日本国内で起きた出来事すらも「対岸の火事」のように提示し続けているのです。

マス・メディアが、すべての政治的な出来事をエリートたちのあいだのコンフリクトという偽の表象のもとに語り伝え、また、それによって、ぼくたちをたんなる「観客」の立場へと押しやろうとすることは、実のところ、当のエリートたちがまさに望んでいることそのものです。(『闘争の最小回路』/廣瀬純/人文書院)

それは「アートとアクティヴィズムのあいだ」でなされている異なったタイプの実践形態を指している。アートの側から見ると、それは先鋭的な作品制作が個人主義化された生産/消費形態と制度化された劇場の殻を打ち破り、それぞれ培ってきたメディウムと技能を全面的に解放し、社会と都市空間の変革に介入し始めることである。これはアートという特権的に閉じていた領域の自己解放である。アクティヴィズムあるいは社会/政治活動の側面から見ると、それはそれらがかねてから暗黙の内にそこに依って立ちながらも意識化してこなかった、あるいは無視してきた人間関係形成(あるいは「情動」)にまつわる戦術の本質性に目覚め、それを全面的に方法化し始めようとする展開である。つまり民衆の社会変革運動の様々な次元における方法的/人間関係的な豊穣化である。この二つの異なった領域の自己変革が、お互いの存在を認知し合い、評価し合い、連帯すること―――ここではこうした異種交配が進行している。(『アートとアクティヴィズムのあいだ―――あるいは新しい抵抗運動の領野について』/高祖岩三郎/以文社『VOL03』)

とはいえ、この《のりしろ》については、思想・文学・演劇・詩などその筋の権威・評論家などのお歴々が詳しい舞台評を書かれる/書かれている(たとえば松本潤一郎による『ソーシャル・ネットワークとソシアリスム図書新聞3003号)ようだし、抑々を以て、批評などモレマニや妄想子の出る幕ではない。

吉増剛造+鵜飼哲+豊島重之+前嵩西一馬によるアフタートークについて、或いはそこで吉増剛造から提示された「ひとりんちゅ」およびそれに応答した豊島の「おひとりさま」等々の問題も同様である。

従って、例によって身勝手極まりない個人的妄想に没入し断片的に記していくが、その前に公演フライヤを見て気になったことに触れておきたい。

それは、この公演が「モレキュラー・シアター」ではなく、「豊島重之+モレキュラー・シアター」(による)と書かれていたことだ。

《のりしろ nori-shiro》フライヤ ©molecular theatre

これは妄想子を驚愕させた。
妄想子の朧気な記憶からすると、「豊島重之+◯◯」と表記されることは(モレキュラー・シアター時代には特に)稀だからだ。

モレキュラー前史時代にはいくつか前例があるが、それらは、後に、ひとつのターニングポイントだったと(周囲から)認識されるような作品/公演だったことが殆どではないか、と思われる。

たとえば、豊島重之+豊島舞踊団のダンスドラマ『DJINBAI(じんばい=命綱)』(1968)、豊島重之+鳥屋部文夫『1/2(いちぱあに)』(1984)並びに『the Funnel Experience』(1985)、豊島重之+劇団アララギ派一/四(いち・ぱあ・よん)』(1985)そしてパフォーマンス・フェスティバル・イン・檜枝岐での豊島重之+モルシアター『パラサイト II』(1986)は、いずれも『f/F パラサイト』によってモレキュラー・シアターとして成立するための重要/必要な過程=プロセスだったと妄想している。

『f/F・パラサイト』フライヤ

これらの存在がなければ、スコピオ・プロジェクト/肉体言語舎の及川廣信との下北沢スーパーマーケットに於ける「遭遇」もその後の交流も生まれ得なかっただろうし、その及川プロデュースによる「f/F・パラサイト」でのモレキュラーの「船出」もなかったかも知れない。ひいては、本《のりしろ》公演に及川の「声」が用いられる機会もなかった筈だ。

もうひとつの驚愕。
それは「平仮名表記」によるタイトルが冠せられたことだ。
公式公演記録によれば、1986年にモル・シアター/モレキュラー・シアターとして進水してから、平仮名表記タイトルの公演は存在しない。

これらの事実からしても、マニアは、《のりしろ》を特に注意深く考える必要があるだろう。

(3)
モレキュラー・シアター演劇公演《のりしろ》の冒頭、黒田喜夫『踊り屋』の朗読音声が流れる。

然し乍ら、妄想子の呆けた脳裏を過ぎったのは、『踊り屋』ではなく次の詩だった。
いや、『踊り屋』とこの『沈默への断章』とが併置され混然と聴こえた、と云うべきかも知れない。


明澄な仮の闘いに死んだあとおれは
もう一度沈黙に抗い
沈黙に生きる
もう一度言葉を信じない
おれは言葉でそれを告げる


おれは叫ぶことで
おれであることはできない
おれを晒すことで叫びをあげようとする
それから比喩の死と言葉を播く
唖者の姿を追い
ことごとくの擬似性の飢えと
勝利を拒むために
残された行為の極に下りてゆく


おれのすべての声と意味は
風とともに支配の縁(へり)を降ってくるのを知る
おれは明澄な仮の闘いに生きて絶える
闘いのまえに潰れたおれの盲目は
絶対から起きる暗黒
沈黙の核はきょうの
死者の口に縛られている

(『沈黙への断章』/黒田喜夫/1966.05初出1978改稿)

仄暗い客席後方から聞こえてくるらしい朗読音声「真昼のひかりと・・・ただよう病蚕の匂い・・・」は、複数の話者=声によって微細にズラされながら反復される。

だが、それは反復或いは並列=「2」というよりも、或る境界線を隔てた別の位相(音響的な意味ではなく)同士による複合/重奏でもあるかのように時折響いた。或る境界線とは、黒田の云う「支配の縁」でもあったのかも知れない。

ズラされるのは言葉だけではなく、途中で不意に話者=聲も置換/転移され、またズラされる。

土間の闇から
虫か人かわからない声がきこえる
(『ウ・ナロード』/黒田喜夫)

そう、《のりしろ》会場で聴こえた声は、抑、誰の声だったのか。
人間の声であったのかどうかすら覚束ない。
死者の声であるかも知れず、葦や蛇や尺取虫や山椒魚の声であったのかも知れないのだ。

録音された朗読が再生されるのみならず、その場で出演者が発する朗読も聴かれた。録音された「自分の」声を聴き、その場で発する「自分の」声が会場に拡声される状況をもまた耳にする出演者=聲は、どのように声・音声を聴き、どのように声・音声を発していたのだろうか。

自分の声は喉で聞くんだ(アンドレ・マルロー)

ヘーゲルが「動物の発する空虚な声はそれ自体として無限に限定された意味を獲得する。」「あらゆる動物は暴力的な死に直面すると声を発し、自らを廃棄された自己として表出する。声のなかで意味は自らの内部へ立ち戻る。それは否定的な自己、欲求である。それは欠乏、それ自身のうちにおける実態の喪失である。」(『イェーナ時代の実存哲学』)と書き、アガンベンがこれを受けて

動物の声は死の声にほかならないのである。(中略)死の声(ならびに記憶)とはつぎのこと、すなわち、その声は死が生者を死者として保存し記憶しようとしたものであり、それと同時に、そのまま死の痕跡ならびに記憶でもある、つまりは純粋の否定性でもあるということを意味している。

動物の声は本当をいえば「空虚な」ものではなくて(さきに引いたヘーゲルのくだりでは、「空虚な」とは「限定された意味内容を欠いている」ということを意味しているにすぎない)、動物の死を含みもっているからこそ、この声の純粋の音(母音)を分節し停止させるーーーそれゆえ、この死の声を分節し保存するーーー人間の言葉は意識の声、意味を表示する言葉に転化しうるのである。(中略)

人間の言葉は、この「消え失せていく痕跡」を分節したもの、すなわち、それを停止させ保存したものであるかぎりで、動物の声の墓場にほかならない。人間の言葉は動物の声のもっとも本来的な本質、すなわち「もっとも恐るべきもの」、つまりは「死者」を守護し、しっかりと固定しておくのである。

このために、意味を表示する言葉は、真の意味において、死を「運んでおり」、死のなかで「維持されている」、「精神の生」そのものにほかならない。(『言葉と死 否定星の場所にかんするゼミナール』/ジョルジョ・アガンベン/筑摩書房)

と書いたことが「真昼のひかりと・・・ただよう病んだ蚕の匂い・・・」で始まる聲から想起され、地名・記憶・写真を巡る、より深い妄想へと誘われていく。動物の声の墓場にほかならない人間の言葉、しかし録音され振動体を通じて電気的に拡声された音響として聴かれる言葉は、果たして人間の言葉なのか。

正体不明の声による二重のズレと断続的に相互に干渉しあう音像とによって聴覚の閾値=スレッショルドレベルが下げられ、聴感が研ぎ澄まされるとともに、次第に朗読音声の聞こえない時点=合間=音声の「漏れ間」に、別の聲が聞こえ/漏れ始める。

ふと見ると、舞台上には口を半開きにした死者たちが、光る方形の上で引き攣ったような微振動をしながら蠢いているではないか。

彼らは、「常に遠景から近づいてきてしかし常に頭上を通り過ぎる殉教者」たちだったのかも知れない。だが、通り過ぎるわけでもなく後に虚妄な/虚妄と化した言葉を落としてもいないことから、殉教者ではなく或いは「死を拒み 拒むきわみの絶息に下りた者」(『断声』)だったのか。

肢下の光る方形=底穴が、陸続と折り重なる死者たち或いは「一人の底の一人の底の悶絶の民衆性(『至近への旅』)」に通じているとすれば、「あんにや」のように見えざる者になるために見えるところ=上方へ登ろうとはしていないこれらの仮/既死者たちは、まさに「深く暗い穴」の「底」そのものであり、全員が同じ声で同時に話しているかのようにも視える/聴こえる言葉=朗読音声は、まさに「沈黙の核はきょうの/死者の口に縛られている」状況であるかのように見えた。

《のりしろ nori-shiro》より ⓟMIYAUCHI Akiyoshi ©molecular theatre

時間差を伴った機械操作=再生ボタンの押下により、二台の再生装置が時間差=ディレイを伴って半反復しながら再生していく。一台目の音声再生が始まり二台目の音声再生が追随する始めのうちはそれは先行音声の反響=ディレイあるいはエコーのようにも聴こえるが、すぐに二つの音声が絡み合い溶解し合いながらひとつの流体を構成するかのよう内部残響を伴って流れ/漏れ出し、一台目の音声のひとつのパートが終わり二台目の音声のみが響く一瞬の反響状態を経て次の音声再生が一台目から開始され、また明晰な半混沌とでも言うような状態が続く。

これらに晒され浸され続けていると、或る種の大きな「連続性」の中に陥っているかのような幻視が視えてくる。つまり、別の時間軸で駆動する二台の再生装置=「遅延装置」による、細切れの朗読音声の、時間差を伴った並列再生の繰り返し=反復作用によって構成されていくひとつの「連続性」だ。

連続性が喪をもたらして=喪に服している。それは、そのひそかな構造(中断・分離・反復・残存)によって喪をもたらす。連続性は、自らのテーマ、あるいはこう言ったほうがよければ、イメージ内容をなす死の形象のかなたに、自らの喪をもたらしているのだ。
(『留まれ、アテネ』/ジャック・デリダ/みすず書房)

まさにあれは、「自らの喪をもたらして」いる状況であったのか。

喪に服すかのように薄闇の中で蠢く仮/既死者たち=出演者の眼前/背後には、縦長方形の白い光面が中空に浮かんでいた。
また幻視が襲う。

ここ、シャティーラの廃墟にはもう何もない。老女たちは口をきかず、白雑巾を打ちつけた戸の影にすぐ姿を消してしまう。(『シャティーラの四時間』/ジャン・ジュネ)

こうして《のりしろ》は「起動」された。

(4)
かつて、豊島が「「名=nom/ノン」としての上演、「数=nombre/ノンブル」としての上演」と言及している(『演劇のアポトージス 第一章』)以上、《のりしろ》においても「ノン/ノンブル」に意を注がざるを得ない。

また、

言い換えれば「n-1」で書くこと。それを方法と呼ぶ。
こうして、方は「2」として作動する。それは「2」であることによって、全ゆる次元に閃光のような亀裂を走らせ、「2」を刻印していくのである。
「n-1」の1とは何か。言うまでもなく、それは正負の符号を縦横に張り巡らされた「法」を意味する。「1」とは文字通り、一人で書くことを吊り支えている統辞法、いわば内在と超越のシンタックスのことなのだ。
要するに主体性、それが差し引かれた中空にこそ「方-法」は作動する。そして、マイナスとハイフンの段違い平行棒めいた「主体制」の舳先を問うのだ。

とも書いている(『方法主義宣言04』)以上、「2」に想いを巡らせ、主体性が差し引かれた中空を呆けた眼で凝視せざるを得ない。この場合、「何がnか」「◯がnだとすれば〜云々」といった方向での探求は専門家に任せるとしても、何故豊島が上記の考えに至ったかを思えば、既存の制度(化)に抗する気の遠くなるような「戦意」と報いられない「徒労」とを想わずにはいられまい。

「「11」というノンブルと「el-even」というノンに、イーヴンの否認がイレヴンだという「名指し=デノミネート」にずっと拘泥してきた」(『演劇のアポトージス 第一章』)豊島であるからには、この《のりしろ》という言葉も、文字面通りそのまま素直には受容できない。

当然ながら、この「ノン」には「オン」も含意されている、と考えるべきだろう。これらの思考プロセスには、否定性/否定・性/否定・生だけでなく、近似性や類縁性や時間性といったオンが有する諸問題も介在してくる、と妄想するからだ。

まさに、露口啓二の「ON_沙流川」の如く。

露口啓二

露口は、「「視覚を微かにでも離れる写真」などということが自家撞着であることを承知」の上で「ONは沙流川という場所のそれぞれの固有のオンをさぐり、その場所のオンとその場所のシャシンとを接近させたいと思った」(『Blinks of Blots and Blanks / ICANOF2009』)或いは「地層や岩石のきしみ、水や大気の流れ、植物の静かな躍動、小動物のうごめきや鳴き声などから発するかすかな音に感応する写真/大地や大気の温度、湿度、光の拡散などに触覚的に感応する写真/あたかも小動物の視線に沿ったかのような写真/聞くことで一瞬見ることを中断し、盲目の状態で見る(写す)写真」(露口啓二Webより引用)と書いた。

だが、豊島の『演劇のアポトージス 第四章』として謀らずも公開されてしまった露口と及川の「交信」を読むと、「写真家の身体性」から「写真それ自体の身体性」へと話が展開される過程において、「オン」それ自体も揺らめき軋み蠢いていく妄想に駆られると同時に、オンの歪み・軋みから漏れ出すもの=「オンのオン」へと思考が走るのを感じる。露口の写真自体に対しても、そこに滲み出している「オンのオン」を嗅ぎ取り、引き出し、聞き取る作業がまず求められるのではないだろうか。オンとオトについては、後でまた妄想することとする。

蠢くといえば、この「ON_沙流川」というタイトル自体も蠢いている。
というのは、露口の手によるサイトに於いてですら、「ON_沙流川」と「ON -沙流川-」という二つのタイトルが存在するのだ。
まさにモレキュラーの「f/F パラサイト」と「f/F・パラサイト」の如く。

あらゆる写真は実際、喪ったもの、つまり死者を保持せねばならず、各固有名の喪の体験を通過しているのではなかろうか。それぞれの指示対象のいまここの、日付の、抗いがたい固有性による体験。それゆえ写真が示すものとの関係、関わり、くびき、その固有の視界を構成する領域の体験を。したがって逆説的なことだが、換喩的な置換を止めることは不可能になるだろう。固有名のみが存在するにもかかわらず、換喩的であるのだ。それこそが、写真というものだ。(『留まれ、アテネ』/ジャック・デリダ/みすず書房)

こうなると、《のりしろ》というタイトルも、nori-shiro=「nor-ish-il-o」=「地域・所属・傾向・性質、あるいは間違った/病んだ口の、いずれでもない」というほどの含意でもあるのではないかと、つい妄想したくなるところだ。

ところでタイトルと言えば、ここでは「のりしろ」という平仮名表記と「nori-shiro」という英文字表記が併置されている。
ここに見られる表記の違い・揺れ或いは「不一致」の意味は何だろうか。

だが「nori-shiro」と併記されている訳だから、「のり-しろ」とも云い/読み得る筈だ。
つまり、日本語の表題《のりしろ》には、「不可視の-」が内包されていることになる。
この「」とは何か。

もしかすると、それは、上述した「異なる位相を隔てる境界線」或いはこの作品の其処彼処に豊島が仕込んだ境界線、または境界線同士を繋ぐ盲面それ自体であるのかも知れない。ひとつの反復単位=「音声A」+「-」+「音声A’」に於いては、音声A=のり、音声A’=しろ、なのだろうか。途中で話者=聲が交換/転移されることは、どう考えるべきか。

或いは、盲面/光面であるだけでなく、「界面」、もしくは「ー」が選択的透過性・電気的興奮・免疫特性の発現などの機能を有する細胞膜(装置)/浸透膜(装置)であるとでもいうのか。或いは、「のりーしろ」が実は「のり引くしろ」だとしたどうなるか。

斯様に、タイトルひとつとって見ても妄想のネタがギッシリと詰まっているのは、モレキュラーならではである。

(5)
と或る幻視の風景。

Is it a Linden tree?/amoderndandy氏のブログ「Because I'm pretentious like that!」より引用

はじめ16の死体が吊るされていた。
死体=縊死体/縊殺体は、しかし一度地に降ろされ、「再度」逆さに吊り下げられていた。手は躰に縛り付けられていた。
各々の死体の首は、死後硬直で縊死時の角度に折り曲がったまま微かに揺れ、その口には外気が幽かに共鳴する。
其処は深く暗い地で、鬱蒼とした深森の中ではなく地割れによって沈下した狭域であり、両側に崖が屹立して縊死体の連なる空域を挟撃していた。
目が慣れてくると、死体の群れのその奥に、さらに奥の縁があるのが判る。
其処はまさに「端」=8の地だった。

銃殺の後、逆さ吊りにされたムッソリーニ

と、8の地に死者たちの姿が浮かび上がる。
彼らは、ゆっくりとしかしほぼ同時に左回り=反時計回りに縊死体の方を振り向く。
端=8の地勢/知性、或いは生/性を反転させるのか。
しかし、8は反転しても8であり、後に8は傾転され、無限遠=∞との間を往還する。

counterclockwise

(6)
しろ=46=24。或いは16或いは屍蝋或いはレタル。
し=シネプ或いはし=之。
16の屍蝋/遺体。

糊するものとくれば口だ。
つまり、24の口。

縊死体と見えたのは、逆さ吊りにされたマイクスタンドであり、頭部に当たる先端にはマイクロフォンが固定されケーブルが接続されていた。然し乍ら、マイクロフォンから黒田喜夫の『除名』『モノローグ』の朗読音声が発せられていることが判る。

つまり、ここでマイクロフォンは、一般的な「収音」という用途に使われるのではなく「誤用」され、(録音された)「聲を発する」もの=発音体として、つまり「聞く/聞かれる口」と化していたことになる。或いは「話す/話される耳」であるのかも知れない。耳=ミ・ミ=「身体の中の(上の)身体」であることを想起すれば、ここにも豊島の含意が感じられるところだ。

とすれば、16の地で、「中空から下方に」向かって「ミのミ」から放射される「コエ」とは?
「ミのミ」の音=オンとは?

茸は茸自身音を出すかどうか。
或る種の茸の菌褶は、適当に小さな羽をもつ昆虫がそれをピッチカートするのに使えるかどうか。(『音楽愛好家の野外採集の友』/ジョン・ケージ/1954)

またハエの羽音が響いてきた。

2009.08.17歌舞伎町の蠅/ⓟ妄想子

ここで大急ぎで思い出しておきたい。

まず、コエ=「聲」という会意文字が、元々「声殳」+「耳」であったこと・「声殳」が「磬」=吊るした石(の楽器)を殴ち鳴らすことであり、耳に聴こえるその鳴る音を聲=セイといい「おと、ひびき」の意味となったこと・「磬」は神を呼ぶための楽器であったこと・後に人の「こえ」の意味に用いるようになったこと。

次に、聽=チョウが「耳」+「壬(テイ)」+「徳」であり、壬はつま先立ちをする人を横から見た形であること・聴=「耳」+「目」+「心」からなる会意文字であること、ここで聞くのは神の声/啓示/お告げであったこと(『常用字解』/白川静)等々。

つまり、聲とは、抑々「吊るした石の音」=「中空で発生する音」であり、聴とはそれを聞く姿勢を表していたのだ。
吊るした石が吊るされた縊死(体)と交錯する。

同様に急いで思い出すべきなのは、マイクロフォンがmicro-phone=小さな音を「出す」(伝える)もの、という語源(ギリシア語)を持つことだ。
マイクロフォンは語源からして「音を出すもの」なのである。

よって装置性という観点からすれば、豊島は、誤用というより、本来の語意=意味性を「素直に」引き出してみせたことになる。

では、コエはどこにあるのか。
コエ=オト=オンを、「いま・ここで」聞くことはできない。
オトは発生した瞬間に、人が音(聞いた)と認知する前に消失し、その姿を現すことはない。
音楽も同様だが、コエ・オトの出処のみならず「音楽」の来訪は、その聴取中に「忘却され」てしまうために、その明確な水源地を知ることはない。

もしも、息=音であり、息で打つこと=歌であるとしたら、《のりしろ》で聴かれた息音/無声音/有声音による朗読音声は、ある意味「音楽的」な要素をも併せ持つと言えよう。「息で打た」れるたびに、空間=場や時間・・・が新たに伐り出され、打ち直され、その意味の消失に打ちのめされる。言葉の前の沈默=喪失=「喪」から始まり、残された空間=隙間の中のさらに微かな漏れ間が、切れ切れになった/重なりあって有機的に変容した言葉の響き=囁きが震え、掠れ、蹌踉めき、躓きながら満たされていく様子=「喪の腹/複/覆/払」を覚えた瞬間、時を同じくして、豊島の仕掛けた「視/聴」に係る問題提起=「罠」のひとつにも気付かされることになる。

聴くことは、この意味の消失を再発見することです。
音楽を聴くことは、この放棄の要求を創出することです。(デュサパン下掲書より)

音楽を創造すること、作曲することは、ひとつのフォルムを構成することです。フォルム化することは、ふちを発明することです。しかし「フォルム」ということばの意味を誤解してはいけません。フォルムとはまずコンセプトです。(中略)このフォルムということばは、わたしにとっては「(鉤括弧つきの)フォルム」を意味します。ここでは、もはや時間的構造だけではなく、空間的構造が問題になるのです。つまり音楽をイメージしながら、わたしはフォルムを見ているのです。視覚と内面的な耳とのあいだの置換に慣れ親しむほど、フォルムを「聞いている」とあえて明言することができるでしょう。わたしの音楽の発明は、ラインやマス、アングル、渦、ブロック、ヴォリューム・・・の組み合わさった抽象的図形を描くダンスをイメージし、とても柔軟な幾何学的フォルム形成の精神的フィルターを通ったようなものです。この内部的ムーヴマンは、疑いもなく空想的エッセンスを発散させ、しかし、まず最初に、シンフォニー・オーケストラの個々の楽器の遠回しな表現によって、音響的フォルムのなかで現実化します。(中略)書かれた音楽が奇妙なパラドックスにとどまっていることを、けっして忘れないようにしましょう。(中略)わたしの仕事の「本体」はペーパーです。そして、エクリチュールのこの奇妙な転移によって、わたしの企図を、音の無形世界にむけて転写することができるのです。(コレージュ・ド・フランス講義録より『COMPOSER : Musique, paradoxe, flux』/Pascal DUSAPIN/邦訳「音楽のパラドックス」/富山ゆりえ訳/パンオフィス2008)

上で「音楽的」という表記を用いたが、これは「音楽」とは異なるものだ。
演出や進行表(の作成)も所謂「作曲」と異なることも、付言するまでもない。

ここで触れているのは「聴くこと」による/を前提したひとつの仕掛けだが、作曲(というプロセス)は、聴くことでも時間を秩序化することでもなく、更には「時間によって」ですらなく、まずは「時間に沿って」事物・事象を配置/再配置・・・していくことだからだ。これらの行為とその結果としてのエクリチュールが「手がかり」のひとつではあっても「音楽」とは異なることも、今更言うまでもあるまい。

今回の《のりしろ》の体験を通じて、改めて、時間(性)について考える機会を得た。哲学的時間と演劇的時間と・・・と音楽的時間とが全く異質なものであること、時間の構造化ではなく構造化による時間の生成および「空間的時間/時間的空間」或いは「視覚的聴覚/聴覚的視覚」といったものをもしも想定しうるなら・・・と妄想することもできた。勿論、身体的時間についても。

ところで、縊死体がぶら下がる中空=コエが発せられる虚空とは、豊島の言う「「方-法」が作動する主体性が差し引かれた中空」なのだろうか。「方-法」の「法」=のりでもあるから、ここには垂直方向に於ける境界線「-」が引かれているのかも知れない。
或いは、「ー」は何らかの「流れ」=交通のようなものか。

流という文字が、水+㐬=トツの組み合わせであり、㐬が頭髪の乱れた子を逆さまにした形、つまり幼児が水に流されている形、或いは出産、或いは水屍人であることを想えば、この方から法への/法から方への流れ、或いはのりからしろへの/しろからのりへの流れとは、何か慄然とするような事態であることが朧気に見えてくる。

同じ仕掛けは、前々作『マウスト』でも用いられた。
インスタレーション=「装置」としてだけ見れば、『HO Primer』(2004)でも用いられた。

『マウスト mouthed』より ©molecular theatre

2009年12月の『マウスト』においては、《のりしろ》のように整然と二列でマイクスタンドが吊るされたのではなく、舞台エリアを取り巻く客席前列上空に位置するように、つまり舞台エリアを「外部」への指向性を持って取り囲むようなかたちで設置されたが、マイク間の距離が不均一に近接していたこと及び再生方法、並びに再生される朗読音声自体の音響的構造が《のりしろ》とは異なることもあって、今回のような重層的干渉などの事象は感得されなかった。マウストにおける音響については、及川氏も当時コメントを残している。

いずれにしても、《のりしろ》では、今までのモレキュラー作品より強く「コエ/ハエ」の問題が浮上させられた、と言えよう。
のみならず、ミのミ、オンのオン、そして「ミのミ」に於ける「オンのオン」も。

ハエと言えば、モレキュラーがここ数年関わりを顕にしてきたジュネの『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』に、次の一節があることを思い出す。

見えない素描がそこにあることが暗に了解されているような白、それでこそ空間の感覚は獲得される。この空間を、ほとんど測量可能にするほどの力とともに。

優雅なのは描かれた線ではなく、そのなかに含まれた白い空間である。みちたりているのは線ではなく、白なのだ。(『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』/鵜飼哲訳)

これに関して、月刊「ユリイカ」の2011年1月号で宇野邦一が、

この白い空間は、同時に「死者たちの住む太古の夜」である。これは近づきがたい空間であり、慎重に近づくべき空間であり、近づかなくとも、すぐそこに、あるいは背後にある空間である。そういう遠近法に対応する時間のかたちを再発見しなくてはならないのだろう。ダンサーと俳優のからだは、ときどき白い空間に、ジャコメッティの犬や歩く人のように象形文字を描く。これもあくまで問いとしてである。

と書いたことも、記憶に新しいだけでなく《のりしろ》の舞台とも呼応してくるようだ。

ならば、ジュネが『演劇』で書いた、演劇に固有の時間が経験され得る最も固有的で有り得る場所=墓地であり、死/死者の間近に場所を持つ演劇という下りについても、再度、何度でも考えねばならないだろう。上で引用したデリダの云う「」の問題についても同様である。

ここには、豊島もかつて指摘した周縁化/領有化の問題も姿を現してくることを、忘れてはならない。

(7)
それにしても、なぜ8なのか?

8からは、豊島の「カフカの「事実-観察」の書法。ヴィトキェーヴィチの定款の書法。ルーセルの推敲の書法。ベンヤミンの脚註の書法。そしてべケットの「5・9・5・6・4・6・7・7」や「6・6・6・5・6・5・7・7・7」、即ち畸型連歌とも散文的連句とも、ただの中間数の散逸ともつかぬ「散数」の書法。」(『方法主義宣言 04』)で書かれるところのベケットの書法の要素数=8も想起される。

マニアなら直ちに豊島の『八戸の「ハ演劇」=コロニアル演劇をめぐって』を想起するかもしれない。
そう、豊島にとって「8=八=ハ=は」でもあるのだ。

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或いは、豊島が引用した及川廣信のテクスト「背面の仙骨の8つの窪みに易経の八卦の仕組みが籠められていて、それがひとつは背骨を遡って掌と指に通じている」における「8」もまた去来してくる。

8=八は古代日本における聖数だが、西洋では逆に不吉な数字とされるらしい。また、言祝ぎ・尊敬の意(八咫鏡・八尺瓊勾玉・八咫烏、八重垣、八重桜、八幡、八百万神、八百八町・・・)であり、凶・爪弾きの謂(嘘八百・八方破=やけくそ・村八分・八百長・八裂き・・・)でもある。
つまり「両義的」なのだ。
元々「左右にものが分かれる形」(『常用字解』)であることからも、これは了解できる。

戸田亜里が『狼擬』(アテネ書房/1991)で指摘するように、ドイツ語でも同様である。
acht=ア「ハ」ト=八。achtung=尊敬(する)・敬意(を表す)。acht=追放・放逐。achten=追放する・仲間はずれにする。

追放される先とは勿論8=「(の方)に」であり、それは8=「」でもある。

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モレキュラーの本拠地八戸を、豊島は「深い津軽と盛岡に反して雪がパッタリとなくなる空域、かつ、津軽弁とも盛岡弁とも異なる八戸弁という独特なアクセンチュエーションの「dialect area」」(『八戸の「ハ」演劇』)と書いたが、狭間=ハ・ザマとして挟撃される両義的な地=八戸=「皿沼」も、この舞台には含意されているに相違ない。

昨年出版された『飢餓の木2010』と同様、右からも左からも入ることができ中心で終わる非直線的な舞台=8の地。90年代初頭、豊島は非直線をイル・リニアと称していたが、これは「入る・リニア」でもあって、直線及び放射自体に立ち向かう線をも含意していよう。

事程左様に、立方数でありかつ「2」の累乗数でもある「8」については、妄想し続けねばならぬ運命にあるようだ。

しろ=何も書き入れてないこと。また、そこに何も印刷してないこと/何かをするための部分や場所/代わりをするもの/田地の面積を測るのに用いた単位。1段の50分の1。依代。苗代。
のり=の裏=(しろ)の裏=シロの底。
のり=距/尺度/法/斜面の傾斜/血。
のり=動詞「の(宣)る」の連用形が名詞化したもので、神仏・天皇の宣告の意。
のり=勅/祝詞=イノンノハウ。

観客はシロ=無罪/埒外であることがさも自明であるかのように「(観劇時の)普段通りに」客席=「しろ」の席に座っていると、それまで縦長方形スクリーンに照射されていた光=強烈なサーチライトを「のり」から向けられ、いきなり己の立ち位置が宙吊りにされたことを知ることになる。シロであってなおシロに。シロの上のシロに。これは、冒頭でも触れた「向「脱闘争化/脱政治化」回路」形成の「阻害」への一歩となる。

サーチライトを照射した者は誰か?
サーチライトを照射された者とは何者か?

この公演において、出演者は初め「のり」から「しろ」へ、そして「しろ」から「のり」へと移動を繰り返す。
移動できる=「のり」と「しろ」を隔てる「」が架橋されているのだ。つまり《nori-shiro》の「」が。

移動=8の地から16の地に死者/仮死者たちが「滲潤」しようとする時に、8の地から眩い白光が照射され、光の中で死者/仮死者たちは別の存在にでも羽化するかのように重なりあって頭部を蠢かせていた。光を遮ろうとするというより、光の中に己の残像を刻印でもするかのように。

その時ぱっと
白熱のライトが点けられた・・・・

(『遠くから襲う幻』/黒田喜夫)

《のりしろ nori-shiro》より ⓟMIYAUCHI Akiyoshi ©molecular theatre

均等に設置された8枚のELシートは、演出プランに沿って、都度オン/オフされる。
このオン/オフは、所謂舞台芸術に於けるタイミング或いは装置としてのみならず、領有化と非領有化、領域化と非領域化の問題をも提示する(ための)操作だったのではないか。

ELシートのオンオフ=1または0=1ビット。
8枚=8ビット=1バイト=情報の基本単位。
8=八個の方形=口の光。
八口光=ハロー=後光?
光?

8の地は、8個の方形が設置されている/位置しているのではなく、8個の方形によって逆に「分界」されていたのかも知れない。
8個の方形が「のりしろ」であるかも知れず、8個の方形以外が「のりしろ」であるかも知れぬ。

分界=境をなす=divideを辿れば、divine=神に繋がる。divineを更に辿れば、サンスクリット語のdeve=暖光、そして印欧祖語ではdeiwosに繋がるらしい。言うまでもなく、deiwosは古代ギリシア語のZeus/ラテン語のDeusの語源である。

Main articles: Dyeus and God (word)
The word “deity” derives from the Latin “dea”, (“goddess”), and ‘”deus”, (“god”), and other Indo-European roots such as from the Sanskrit “deva”, (“god”), “devi”, (“goddess”), “divya”, (“transcendental”, “spiritual”). Related are words for “sky”: the Latin “dies” (“day”) and “divum” (“open sky”), and the Sanskrit “div,” “diu” (“sky,” “day,” “shine”). Also related are “divine” and “divinity,” from the Latin “divinus,” from “divus.” Khoda (Persian: خدا ) translates to God from Persian.

The English word “God” comes from Anglo-Saxon, and similar words are found in many Germanic languages (e.g. the German “Gott” — “God”). (wikipedia)

法・勅に於ける光による分界・・・。

どうも《のりしろ》には、今までとは戦略を異にする、いや今までは敢えて露呈させてこなかった豊島の演出企図の「底」もまた明滅しているようだ。

(8)
モレキュラーには、上述のカフカ、ヴィトカッツィ、ルーセル、ベンヤミン、ベケット、或いは最近のジュネ、メイエルホリドら以外にも深い関係のある作家がいることも想起すべきだろう。豊島自身のテクストや『HO-KORIの培養』などから容易に認められるように、デュシャンである。

とすると・・・

8枚のELシートも縊死体/縊殺体のマイクロフォンも、言わば「電気仕掛」である。
電気?

電気を横にして

「あらゆる芸術」において電気の唯一可能な利用法。

・・・が与えられたとせよ。そして私が大いに苦しんでいると仮定するならば・・・

見ること
見るのをながめることはできる。それに対して
聞くのを聞くことはできない。

(『一九一四年のボックス』/デュシャン/北山研二訳)

聞くのを聞くことはできない。
しかし「話す口」からではなく「聞く/聞かれる口」あるいは「話す/話される耳」=「誤用/適用されたマイクロフォン」から聞くことはどうか。そのミミ=ミのミから発せられるコエ=オンは誰のものか。

これらの電気仕掛を駆動するには、当然ながら操作人が必要だ。
操作人?

一枚の笑いを誘うタブローのための一般的なノート

棺の主導者(往復台の繰り言)
出資されたシンメトリーの原理(操作人と縊死体の動きへのその適用。雌の縊死体を見よ)。

(『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』/デュシャン/北山研二訳)

操作人・縊死体・シンメトリー。
操作人と8人の死者とシンメトリカルな空間構成。
8の地の死者たちは、顎の線から下のエリアを暗闇に浮かび上がらせ、かつ吊り下がった16の縊死体/縊殺体よろしく、ELシート上で反転=倒立してみせたではないか。

《のりしろ nori-shiro》より ⓟMIYAUCHI Akiyoshi ©molecular theatre

モレキュラーにおいて、ELシートは『BBB-1/2』(2009)公演から用いられた。

bbb1 ⓟ妄想子

2枚の方形。これが『マウスト』では増殖した。
方形?

2007年の『バレエ・ビオメハニカ』に際し、「マレーヴィチ「シュプレマティズム」の、とくに「白の中の(上の)白(い正方形)」を私達は参照しています。具体的には三面が白亜のギャラリーを想定しています。」とモレキュラー自身によって書かれていたことが、楔のように脳裏に突き刺さるのを感じる。『バレエ・ビオメハニカ』から『イル/イル』においては、白い方形が三面の壁に投影された。

"ILLUMIOLE ILLUCIOLE" ©molecuar theatre

とすれば、『イル・イル』から『マウスト』に相転移=パサージュする際に、白い方形は、「内」と「外」を隔てる壁面から「底」と「底の底」を接続する床面へ、垂直面から水平面へ、そして眼から口へと写像/逆写像されたのだろうか。

或いは、白い方形=白の(中/上の)白によって「壁」が破砕され、内部性と外部性の問題を「中空」に漂わせたまま宙吊りにして見せたのか。

バグダッドの壁/nytimes.comより

バグダッドに於いて「我々のベルリンの壁」「牢獄にいるようだ」と住民に呼ばれた壁、米軍が自らのセキュリティのために構築した、しかし地域経済や共同体を破断していた壁が撤去され始めたことが、頭を交錯する。

何かを芸術としてみること―――それが《キリスト降架》であれ、《白の上の白の正方形》であれ―――は、そこに同時に二つのものを見ることを意味します。同時に二つのものを見るということは、だまし絵や特殊効果の問題ではなく、形態を展示する表面と言葉を刻印する表面のあいだの関係の問題です。しかし、この記号と形態の新たな結び目―――それは批評と呼ばれ、芸術の自律性の宣言と同時に生まれます―――は、剥き出しの諸形態に意味を付け加える事後性の言説という単純なかたちで作用するのではなく、まず新しい可視性を構成することに取り組みます。新しい絵画とは、別の仕方で見るように訓練されたまなざし、表象の表面上で、絵画的なものが表象のもとに出現するのを見るように訓練されたまなざしに映じる絵画のことです。現象学の伝統とドゥルーズの哲学はとかく、表象のもとに現前を引き起こすという努めを芸術に与えます。しかし、現前とは、表象の意味作用に対置されるような、剥き出しの絵画的事物ではありません。現前と表象は、言葉と形態の二つの編み方の体制なのです。現前の諸々の「無媒介性」から成る可視性の体制は、その布置をやはり言葉の媒介によって定められるのです。(『イメージの運命』ジャック・ランシエール p105-106)

ランシエールを引くまでもなく、どうしても可視性/不可視性の体制・制度と言語による媒介の問題、そして豊島に「翻訳」(その可能性/不可能性の問題、翻訳の残余/残余の翻訳の問題も含め)された黒田喜夫の思考とが、浸々と水位を上げて迫ってくる皮膚感覚を覚える。

水位を上げて迫り来る黒田喜夫と言えば、次のテクストは妄想子が熱気渦巻くサウナの中で読んでいたものだが、『死にいたる飢餓』の解説文か、と思わす妄想したので紹介しておく。

プロレタリアートを例にとろう。もちろん、労働者階級は資本主義社会ではさまざまな意味で「可視」の存在である(市場で自らの労働力を自由に売れる者として、暴徒化しかねない大衆として、資本主義経営者に忠実で規律ある従業員として、など)。それでも、こうした可視モードのいずれも、資本主義世界の「器官なき部位」というプロレタリアートの症候的立場を表わしてはいない。それゆえにパディウの不可視性は、ヘゲモニー思想空間において可視性と表裏をなし、見えるものを見えるようにするため、見えない状態にとどまらねばならない。あるいは、もっと旧式の表現でこう言ってもいい。フーコー派の手法でつかめないのは、ヤヌス的なふたつの顔をもつ症候の要素だ。ひとつは状況の境界線上のアクシデント、もうひとつは同じ状況の真実(を表わすもの)である。

同様に「排除されたもの」はもちろん可視であるが、皮肉にも、排除された状態こそが包摂モードであるという意味で可視なのだ。つまりそれらが社会的身体に占める「正当な場所」は(公的領域からの)排除ということだ。

「はじめは悲劇として、二度めは笑劇として」(スラヴォイ・ジジェク/栗原百代訳/筑摩書房「ポストモダンの共産主義」)

さて、デュシャンに戻ろう。

8=2^3=4・4=3・1・4=死者(下手)・シュレッダ(中央)・死者(上手)
8つ?

雄特有の鋳型 [雄特有なものとしての(?)]

エロスの母型とは、空洞の(空洞状に固定されたー表示された)八つの制服またはお仕着せの全体を意味する。それらは、照明用ガスに
八つの雄特有の形(憲兵、胸甲騎兵、等々)を与えるべく定められている。

八つの雄特有の形のそれぞれ(それぞれの形)は、共通の水平面、つまりそれらをセックス点で切断するセックス面
の上下に設定される。
あるいは
八つの雄特有の形のそれぞれは、セックス点という点で一つの(le)想像上の水平面によって切断される。
すべての排出面までの照明用ガスの発展(改良)(続き)。

(『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』/デュシャン/北山研二訳)

何もないステージ=空洞に固定された8つの仕込まれた正方形=口。
飢餓穴から上方を覗う排出面までの照明。

豊島はこうも書いた。

『マウスト』では「きくことのベッド=聴床」に足のウラをめり込ませる、8の字状=クラインポット状に沈み込ませる。「復唱する口」との接面に落下する身体、直下型の「口状の身体」となって。(「演劇のアポトージス 第四章」)

8の字状のクラインポット?

クラインポット=クラインの壺とは、Wikipediaによれば「境界も表裏の区別も持たない(2次元)曲面の一種。(中略)ちなみに、この通称は翻訳の際の勘違いによるものである。原語であるドイツ語では「Kleinsche Fläche(クラインの面)」。英語に翻訳される際、Fläche(面)がFlasche(瓶)と取り違えられ、bottleと訳された。」とのことだから、クライン面は豊島の言う「盲面/光面」とも関係がある。言わずもがなラカンとも。

またしても「8」である。
とすれば、「16」もまた。

端=恥=巴=8/octaの地がもし「のり」だとしたら、代=屍蝋=白=16/sedecimの地が「しろ」となるのか。

16からは十六島(うっぷるい)も妄想される。しかも島根県の十六島は、海苔=のりの名産地でもある。《のりしろ》に於いては、「のりーしろ」=「しろーのり」/「n-1」=「1-n」なのか。

十六島

またしても、妄想=ビョーキ(死語)が暴走しはじめる。

(9)
ダンス。
第二の/もうひとつの顔。

顎を反らして蠢くダンサーには、顎=頭頂とした第二の顔が浮かび上がる。
第二の顔を浮かび上がらせるものが、肢下にある光面=口から投射/放射されるものの反映/翳でもある以上、底のまた底にいる者の現出なのか。

《のりしろ nori-shiro》より ⓟMIYAUCHI Akiyoshi ©molecular theatre

両手がしだいに耳の傍にあがって掴む
それからほとばしる何かのために
口を解き放って
ムンクの《叫び》に似る姿態になると
覚えない失神のおくから極を追う男と
極に追われる男のさけめに架かる
ながい無音の叫びをおぼえたのだ

(『沈黙への断章』/黒田喜夫/1966.05初出1978改稿)

ここには、何かしらランシエールの「身体によって運ばれる諸々の刻印の展開と、身体の、意味作用なき、剥き出しの現前による中断的な機能―――のあいだの移動となったのです」を想起させるものがある。

イメージに対する言葉の優位性の廃棄あるいは言葉に対するイメージの優位性の廃棄
特異性=単数性の肯定と廃棄

身体すべてが深層そのものになり、基本的な退化を表象する、口の開いたこの深層のなかへすべてを導入して、くわえ込む。すべてが身体であり、身体的である。すべてが身体の混交であり、身体のなかにあり、嵌入であり、滲透である。アルトーが言うように、すべてが身体的なものである。《われわれは、膨れ上がり、苦悩の釘に打ち込まれた背骨を背中に背負い、歩いて行くと、重荷を持ち上げようとする努力と、それに対抗する抵抗とによって、それらの背骨が箱のなかで相互に嵌入することになる》。一本の木・柱・花・杖が身体を突き抜く。つねに他の身体がわれわれの身体のなかに侵入してきて、われわれの身体の諸部分と共存する。すべてが直接的に箱であり、缶詰の食料、排泄物である。表層が存在しないので、内側と外側、含むものと含まれるものにはもはや明確な境界がなく、普遍的な深層のなかに埋没してしまうか、どんどん詰め込まれるにつれて、さらに狭くなる現在の環のなかを回転する。そのために、身体を貫通する深い裂け目のなかか、相互に嵌入し回転する断片的な部分のなかで、矛盾を経験する精神分裂病的な態度が生ずる。濾過器としての身体、断片としての身体、分離されたものとしての身体が、精神分裂病的な身体の三つの最初の次元を形成する。(『意味の論理学』ドゥルーズ/p112-113)

とすると、舞台に登場する前、お前はどこにいたのか? 日常の諸々の仕草のなかに悲しくも散乱して存在していなかったのだ。光のなかで、お前は、それに秩序を与える必要を感じる。毎晩、おのれ一人のために、お前は綱の上を走り、そこで体をねじり、身をねじる。靴紐を結ぶ、鼻をかむ、体を掻く、石鹸を買うといった、平常の仕草の茂みのなかに散乱し迷い込んでいた、調和のある存在を求めて・・・。だが、お前がおのれに近づき、おのれを捕らえるのは一瞬にすぎない。それもつねに、死のような、白い、あの孤独のなかで。(『綱渡り芸人』ジュネ)

豊島/ダンサーによる翻訳の試み、意味を欠いた感覚刺激の沈殿としての翻訳の残余その残余の翻訳・・・、或いは空想身体(に係る視線触発を媒介として象徴構造が埋め込まれるという基礎構造)辺りまで妄想してしまうのは、マニア病か。

《のりしろ nori-shiro》より ⓟMIYAUCHI Akiyoshi ©molecular theatre

そして再びふたつの顔

14
だが沈黙に抗う者と
沈默に生きる者
言葉を信じない男と
言葉でそれを告げる男
おれの双つの顔のあいだで声は悶える

15
そしておれの双つの顔は
おれの顔ではなく
おれの双つの顔を凝視しているおれが
おれの顔だ
おれはきょうの沈默者の盟約としてそれを知る

(『沈黙への断章』/黒田喜夫)

改めて我々も「自分の声は喉で聞」かなければならないのだ。

(10)

耳の
岩の
聴こえるもののない屹立を
いっぴきのわたしの管状の虫が這いあがり
這いあがって落ちる
それはかすかな声だ けれども
唇の
壁の
ひとりの釘うちこんだ膜を
よじり波うたせて
極められない無音と伝達の頂きから
底部をめざし
声噴きでるものの黙秘を
言葉もだえるものの拒否を
それは声のおくの声であり
喉のおくの存在であり
わたしのおくの自由のしずくだ

(『黙秘』/黒田喜夫/1969.05)

《のりしろ nori-shiro》より ⓟMIYAUCHI Akiyoshi ©molecular theatre

複数の黒田喜夫。
ディレイ
ディレイの複合体を鳥瞰的に聴く=エコー=「虚声」。

しかし、2台のCDJで不確定的な時間差を伴って再生される録音音声の総体としての音を、我々は聴くことは出来ない。しかも、2台のCDJで不確定的な時間差を伴って再生された音声は、互いに/のエコーではない。エコーが成立する要素が此処にはないからだ。

主副/主客/加被の関係もない。時間的減衰による音響的変化もない。よって通常の意味での「遅延」でもない。のみならず、会場ではハース効果も感得された。つまり、客席上手側に或る音響心理学的な比重が感じられた。

さらに、CDJの人為的操作による軋みが場の切れ目で付加され、時空のみならず感覚的裂け目をも招来していた。これはエコーではない。

とすると、あれは、パラレルなデュアル・モノラルによる「非―虚声」の現出だったのか。

derrida

だが、爾来、私は遅延をつねに、現在や未来や永遠以上に好んでいたのだ―――私にもっとも多くのものを考えさせてくれるものとして、その時が来る以前の遅延を。遅延の観点から、いま=いまや=今後の(現在の、過去の、未来の)現前を、瞬間を考えるのであって、その逆ではない。実際には、遅延とは正しい語ではない。厳密に言えば、遅延など存在しない。それはけっして、主体にも客体にもならないのだ、遅延は。私が本当に慈しみたいのは、むしろ永久的延期(ルタルドマン・ア・ドゥムール、非対称的時間性の猶予過程、計りえないもののうちに数を刻む猶予期間なのである。(『留まれ、アテネ』/ジャック・デリダ/みすず書房)

複数/断片化される紙片と記憶。
シュレッダ。

現実のシュレッダ動作音は、ほぼリアルタイムで電気的に増幅され、客席左右のスピーカーから非現実的現実音として流される。断裁された複数の紙片あるいは複数の記憶は、光を帯び小さく舞いながら光る底に吸い込まれる。

あの複数の紙片/詩篇は何だったのか。
あの複数の光る切片に写っていた/映されていたものは何だったのか。

意味を欠いた感覚刺激というより、意味を「掻いた」刺激
その残余が降り積もる吸着面。

ここで破断・寸断された紙片/記憶は、しかし不揃いの切片に分割されてなお「死者を保持」し喪の体験を通過させているのではないか。
死者を保持しながらも破断された紙片に映り込む「写真」。
換喩的な置換に抗うのではなく、これらを不確定的に再配置する操作に対するメッセージなのかも知れない。

「言語活動は、<声>が居場所を失ったところで生じるのだ」(アガンベン)

文字通り「黒田喜夫のテクストを朗読した音声データが記録されていたCD」は、文字通り「コエが居場所を無くして逃げ込んだ先」だったとしたらどうか。

それを豊島は捉え、しかし破壊はせずに転生させ、コエを生かしつつ言語活動を起動するために/或いはその仕掛けを《のりしろ》で用いているというヒントを呆けた客=妄想子にチラ見せするかの如く「再配置」された状況を提示していたのか。

青森縣下長苗代村北沼附近(青森測候所報告附圖))/津波ディジタルライブラリィ

甕は白い湖に落ち、

うねりの幻惑。
目くるめく飛沫の乱れ。
黄塵はいま神々の後光となって、
きらめき、
きらめき、水面を這う。

(『砂の断章』/黒田喜夫/1950)

16=「代/白」の地から境界を通して持ち込まれ、8=「端/恥」/のり=「勅/法」の地の「中央」で音を立てて断片化され、残り香のように明滅し二重の「箱」の中の宙を舞いながら光る底=口に落ちたもの。

それを黒田の詩・詩論などから(それに応じて)類推/再解釈しようと足掻くこと自体は可能だろうが、豊島が「単純に」メイエルホリド、ジュネの次に上演用テクストとして黒田喜夫に辿り着いた筈がない。つまり、黒田にのみ囚われて妄想することもまた、豊島の本意を見逃すことに繋がってしまうだろう。妄想は尽きないが、この作品が持つ「政治・性」の匂いを嗅ぐことは忘れないようにしておきたい。

(11)
豊島はかつて「演劇の外部と外部の演劇」と題して「写真の外部と写真=外部。写真を撮ることと考えること。写真における主体性の麻痺と意味性の拘縮。写真という地名と地名を失った公共圏。一極化した政治的現実に踊らされる無意識のテロルとその最新部の裂け目を微動する「ダークマター=暗黒物質」。」と書いたことがある(『演劇ここになき灰——モレキュラーシアターの二〇年』/2006)
また、「外の外」は「内の内」とも書いた(『演劇のアポトージス 第四章』)

だがすでに、演劇を非/外部の演劇にすることや演劇と非/外部の演劇を往還したり並列駆動することではなく、演劇自体を「非演劇モード/外部の演劇モード」で起動/駆動し機能させることに、豊島の興味は推移しているのかも知れない。

いずれにしても、モレキュラーによって、《のりしろ》によって、白の中の白、正方形の光面は、我々の脳裏に刻印されてしまった。
余白の余白として。全ての波長を含む白光の瑕痕として。

これによって白と化した脳裏=白レ脳裏=のりしろは、内在平面に於ける「事故」となった。

豊島・及川=寺山・黒田対談など、ここで触れて/妄想していないことは、まだ数多く残っている。
特に、世田谷シアタートラムでの『OHIO/CATASTROPHE』(2006)で初めて舞台上に登場した豊島が、再度自らのコエ=オンというかたちで出演したことについても、マニアとしては考えておかなければなるまい。

然し乍ら、今回の妄想は、このイル・イーヴン=11で終わることにしよう。

おしまいなんておれたちの妄想にはないんだ。
(黒田喜夫、ではない)

陽光のエクリチュール・豊島和子氏追悼

March 28, 2011

被災地に居住する家族を伴っての避難行の最中に、突然、訃報が届いた。
一瞬、言葉を喪った。

豊島和子氏(1929-2011)

言わずと知れた江口隆哉・宮操子門下の特筆すべき舞踊家であり、モレキュラーシアターの源流/母体でもあった。豊島舞踊研究所ダンスバレエ・リセ門下生の内外での活躍も浮かぶ。

<豊島和子略歴>

江口隆哉、宮操子、二瓶博子に師事

1956年 豊島舞踊研究所創設、主催
1964年 全国舞踊コンクール指導者賞受賞
1966年 八戸市芸術文化奨励賞受賞
1976年 青森県芸術文化奨励賞受賞
1992年 八戸市文化賞受賞
1995年 八戸市文化功労者賞受賞
2001年 デーリー東北賞受賞
2002年 青森県文化賞受賞
2005年 国際ソロプチミスト八戸より女性栄誉賞受賞
2006年 東奥賞受賞

社団法人現代舞踊協会会員
社団法人青森県文化振興会議会員
青森県洋舞連盟会員
八戸市文化協会会員

『千のティンガラ(星の雫)』豊島和子(2009)

かつて及川廣信が

すべては豊島和子さんから始まった。彼女の「内的」な独自な踊りが源流であった。(『豊島和子と豊島重之・・・ダンスバレエ・リセとモレキュラーシアターの源流』/PANTANAL2006)

と書いたように、或いは

当時医学生だった弟の重之を裏方の一人に抜擢させて1966年の十周年公演—私の勘に狂いはありませんでした。いつしか76年の二十周年公演を演出・構成し、86年の三十周年公演に当たっては、行き場のないリセの卒業生を中心したカンパニー「モレキュラーシアター」を結成し、その初演作「f/F・パラサイト」は東京でも好評で、翌87・89年・92年にはドイツ・チェコ・イタリア・ポーランドなどの国際芸術祭に招待されて渡航を繰り返すようになりました。私も、思うようには動いてはくれないこの身体を海外各地へと運んだ記憶は、リセの小さな歴史の重みを担っています。また、96年の四十周年公演がオーストラリア「アデレード芸術祭」招待公演や、リセのリニューアルと重なった記憶も、私には貴重なものです。(『記憶の源流/パンタナル』/前掲書)

と豊島和子氏自身が書いたように、25年間に渡るモレキュラーシアターの演劇実験/実験演劇を相互に支えてきた柱のひとつが、豊島和子氏の存在だった。

豊島重之は、次のように書く。

私は50年前の豊島和子の舞台を観た。大勢の黒い影の頭ごしに。私はとても小さかったから。なんだか怖い気がして客席の後ろのほうで「爪先立ち」していた。ウロ覚えでしかないが。

2〜3年で消え去っていく舞踊家やカンパニーもあることを思えば、半世紀もの継続には、やはりそれなりの大きな意味があろう。半面、たった一つの舞台で人々の心を震撼させたまま、消え去り得た舞踊家こそが「真に幸い」なのだとすれば、半世紀もの間、欠かさずソロダンスの舞台を踏んできた豊島和子は「幸い薄き」舞踊家と言えるかも知れない。

——「ギンリョウソウ」「蚯蚓、丘を引く」「デンデラ野」「ここはどこの細道ぢゃ」「パンタナルの蚊柱」そして昨年「セラーン=天泣」今年「ピカイア」来年「お背戸に木の実が落ちる夜は」——。

生きてしある限り踊り続けなくてはならない。それは当人の選択や責任でもなく、ましてや自己表現に徹する願望や覚悟に基づくものでもない。選択や願望の余地もなく、容赦もない、ある環境ある条件下に避けがたく生じた。強いて言えば「単に息している」ことから発したとしか言いようがない。豊島和子にとって50周年は節目ではなく、在り得ないかも知れない51・52・53回目の舞台こそが「常に既に先送りされた」節目なのだから。

<彼女はただ、彼女自身のみを知ろうとしている。>
及川廣信さんの文末の一行は、ここにも響いている。
(『地衣類の微光のその先へ』/前掲書)

いまは言葉を弄すべきではないし、思考を紡ぐこともできない。

然し乍ら、写真を「光のエクリチュール」と書いたデリダに倣えば、豊島和子氏の舞踊・身体表現には、「身体/境界線のエクリチュール」と云うよりも、それらを含めた「空間的エクリチュールに係る実時間転移の表出」とでも云うべき「気配」が認められていたように想起される。

豊島和子氏は「春の陽光ふりそそぐなか」逝かれたと聞く。
いまは静かに、陽光の中に垣間見える豊島和子氏の踊りを観感しながら、その「ジュクルパ」に耳を傾けたい、と思う。
合掌。

キオスモズ

January 28, 2011

まず、前回のキオスモの補遺をひとつ。

黒田喜夫が清瀬村の前に居住した糀谷について、黒田がこの地を相当気に入っていたことと、多摩川と呑川に挟まれた地域であることだけ、前回は触れた。この糀谷という地名には、荒涼とした荒地谷が耕された耕地谷に変わり更に米の花が咲く糀谷になった、という由来説があるらしい。

黒田が糀谷を気に入っていたことは、例えば次の話からわかる。

「こんどの病気が悪くなって入院するまで蒲田の糀谷にいたんです。ぼくが住んでいたアパートは現在つぶれちゃって駐車場かなにかになっているらしいですけど。京浜蒲田*を降りて第一京浜を渡って、真向かいの小路をずっと入っていったとこなんですけどね。」

「いいところですよ。ぼくは病気しなかったらずっとあそこに住んでたと思うんですけどね。地方から出てきて東京に住んで落ち着けるというのはあんなところですね。」

「茶系統ですね。いろんなものがあるわけですよ。生活の多様さっていうか、生きてる人の。小さい工場から、商売人、労働者、なんだかわからない人、いろんな人がいていろんな生活があって。街を歩いていても小っちゃい道がそちこちにあって、そういうところを歩きながらいろんな物事を見るのがすごくよくってね。呑川という汚い川があってね。」

(『土と「マレビト」』より/中上健次・黒田喜夫/1976.12:現代詩手帖1977.02)*現在の京急蒲田駅

昭和55年の京浜蒲田駅から糀谷方面を望む/高崎二区氏「港北総合車両センター」より引用

成程、黒田も触れているように、糀谷が或る種の土着的混沌性のようなものを感じられる地域であり、かつ「日本の底の民」が居て、「日本(国家)という共同の観念規範の根もとの、統べられた世界の底の、亡滅することで異民となるもの」の現在=いまが存在するような地域と思われたことが、「ずっと住んで」いたいと思うほどの「愛着」を黒田が覚える所以かも知れない。

然し乍ら、糀谷の地図を、黒田が幼少期を過ごした皿沼のそれと「比較」すると、或る「類似性」に気付かされる。

皿沼

糀谷

どちらも大きく屈曲した大河の内側で、かつ北方を別の川で遮られた低地=谷地であり、さらに北西部には湿地帯あるいは沼地がある、といった地形である。川で囲まれた内側には、複数の小さい水路・川が流れていた。

糀谷のほうにも、いまは暗渠になっている複数の川・水路筋が呑川と多摩川の間にあるだけでなく、東側には海老取川=汽水域があり、蒲田駅程近くの東蒲中学校付近(=黒田旧居付近と想定)に旧呑川(現:旧呑川緑地)と新呑川(現:呑川)への分流点があり、まさに三本/四本の川に挟まれ囲まれた低地/谷地だった。谷地は、yar・chi=湿潤な場所で皿沼のsarとも関連があるらしい。更には、女性器をヤチと称する方言があり、これも同源かも知れないという説もあるようだ。

呑川/加藤歌子氏のご主人が撮影/「呑川の会」2004年12月号会報「呑川残照」より引用

黒田の作品には頻繁に(タイトル・内容とも)河水が登場するが、わざわざ「呑川という汚い川があってね」と黒田本人が対談で触れていることからしても、少なくとも(呑)川とそこに連なる低地を意識していたことは明らかだろう。後に映画「砂の器」(1974年/監督:野村芳太郎/脚本:橋本忍・山田洋次)にも登場する呑川は、この当時は相当に汚いイメージがあったようだ。

廃線になったK急行の鉄橋にのぼって河口を眺めた
(中略)
魅されていてふと
気配を感じた
辺りをみまわして愕っとした
鉄骨にむぼくと並んで
何人もの男がじいっと河口の舟を視ている
どこの誰と見分けつかない
逆光に黒く顔をおいて
ひと塊りの男たちが舟を視ている
そんな筈はない此処にのぼったのは一人だ
と佇立した
(後略)
(黒田喜夫『河口眺望』より/飯塚書店/1959.12)

この『河口眺望』は「不安と遊撃」に収録されている作品だが、新日本文学に発表された時のタイトルは『憑かれている日のデッサン』だったという。

K兄さん(『非合法の午後』)とK急行(『河口眺望』)。
いずれも昭和三十三年〜三十四年に書かれた。『毒虫飼育』も含め。

現在の旧呑川河口近く/上野隆史氏「多摩川の汽水域」より引用

新呑川河口付近/yookud氏「目にしてきたもの」から引用

無論、これらの「類似性」或いは「相似性」(らしきもの)を、単純な、地理的・視覚的なアナロジーで了解=思考停止してはならず、それを別の複数の相似性に開き、黒田の回路に接続していくようにしなければ意味が無い。

だが、「土着と亡滅」の中で「思い描くことがある」として次のように黒田が書いたことを想えば、幻視されたかも知れない「場所」/場所性の問題も排除すべきではない、と妄想しておきたい。

幼時、私の育った北方の村の近くに、原野ともいえない原野じみた場所があった。その村は、津軽下北からは奥羽山脈が南につながるところ、奥羽山脈と出羽山脈にはさまれた盆地を流れる最上川という河の岸にあったが、河が山から平地で流れ出たきわの、流れの方向を決めかねて曲がりくねったような河の彎曲部の内にひとくぎりの地があり、そこは、その地に(農耕)村落が形成されたとき以来、何十回、何百回となくあっただろう洪水や流れの移動によって冠水と荒蕪をくり返し、その地にわずかに未墾に残されたと思われる場所だった。
砂礫土に丈高い草とぐみや柳などの矮樹を生やした其処は、寺町や大工町のある「町」から母の生家のある村に移ったあと、私が生まれて初めて自然や野生の(おそらくそのミニチュアのだが)気高さ、生々しさ、開かれたきびしさなどに触れた場所であった。想うに、村からあらゆる季節に魅された通った其処は、おそらく亡滅した獣たち鳥たちの幻の白であり、村のひとびとの生から投げ棄てられた場所だったが、しかし、私はそこで夏の日の蛇の交わりを見た。(中略)そして七月の草の深みに故もなく踞っていたときに、そこで熱気と植物の匂いに包まれつつにんげんである自然の、自らの初めての強い性の衝動を覚えたりした。
(『一人の彼方へ』/国文社/1979.03)

呑川は、桜新町の湧水や清水窪弁財天池、洗足池、九品仏(浄真寺)池などからの流れを水源とし、大森貝塚がある鹿島谷など複数の谷を経て羽田で海に注ぐ河川だが、寒河江の最上川と同様に、何度も氾濫し流域に被害をもたらした河でもある。

最も大きな被害が出たのは昭和三十三年九月の狩野川台風(国際名:Ida)の時だとされるが、まさにこの昭和三十三年の春に、黒田は池田三千代と結婚して西巣鴨の借間から糀谷に転居しているのである。とすると、多くの床上浸水を出した狩野川台風の水害を明らかに目撃・体験しただろうし、黒田自身、結婚後の新居で水害を被った可能性も出てくるわけだ。黒田喜夫年譜によれば、この年の九月(=狩野川台風襲来時期)に仕事の空白がある(未発表の詩「遠くから襲う幻」という作品も気になる)

病気再発の兆しもあったこの年、糀谷で黒田は何を考えていたのだろうか。

狩野川台風時の西川口/「山田君の世界」より引用

呑川流域の浸水(昭和33年〜57年当時)/呑川の会より

恐らくは米沢最上屋で発芽・感染し、皿沼で仕込まれ、西巣鴨糀谷で醸成され、清瀬村で反熟成されていったと思われる黒田の強烈な戦意とそのエネルギー、「内の内に抜け出す」「円環運動を脱臼」(鵜飼哲)させるような黒田の思想(の深化)には、逆に、これらの居住地における或る考古歴史地理学的でトポロジカルな要素、および「過去についてのいまだ意識されない知の覚醒」(ベンヤミン)によって視覚がずらされ「そこから出現してくる積極的な部分」=パサージュとしての記憶なども或る種の影響を与えていたのではないか、などと深夜に空腹を覚えつつ妄想する。

閑話休題。
さて、「あんにや」の話に戻ろう。
また閑話が続く

あんにや/あんにゃ=「穴」といった単純なアナロジーで考えられる話ではない。そもそも、黒田が書いている(寒河江=西村山郡の)あんにやの意味は、周辺地域とは異なっているのである。もっと言えば、黒田は「出羽村山地方の一角に」あんにやという言葉があるとしているわけだから、もっと局所的な(たとえば皿沼周辺の)言葉なのかも知れない。

山形に隣接する宮城県(名取市付近)および福島県(郡山市付近)にあける「あんにゃ」或いは「あにゃ」は、卑称どころかどちらかと言えば他意のないお兄さんという程の意味であり、「死にいたる飢餓」におけるそれとは異なる。ヤマトの侵攻ルートでもあった同じく隣県の新潟県においても、長男・跡継ぎという程の意味であったとされる。

たとえば『家族間の呼称表現における通時的研究――子供中心的用法に着目して――』(金世郎)には、次のように書かれている。

p275
新潟市五十嵐ニの町
あんにゃ
長男・跡継ぎ(日本国語大事典第二版)
単なる親族関係を表す呼称ではなく、家の中での「地位・序列」を表す呼称まさに「地位・序列呼称」である。

p279
江戸中期に日本全国の方言や語彙を載せた辞書「物類称呼」によると、
◯兄 あに(嫡子也、俗にそう領といふ)◯越後にてあんにやさといふ。東國にてせなといふ。出羽にてあんこうといふ。奥ノ南部にてあいなといふ。九(刀みっつ)にてばぼうといふ。土佐にておやがたちといふ(備前にていふ親かたもをなし心か)(物類呼称・巻一)

つまり、江戸中期には山形=出羽では、あんにゃではなく「あんこう」と言われていた、ということだ。とすると、黒田が「自分にとっての自己異物の存在」と語ったあんにやはどこから来たのだろうか。

日本における最初の植民地としての東北を黒田は書いているが、ヤマトによる蝦夷征伐における戦線を見ると、確かに山形、そして福島県北部=宮城県境の国見辺りにその衝突の痕跡がある。だがしかし、大和時代の後も山形は同じ流れに晒されてきた。大化の改新の前は、今の福井県関峠辺りから新潟県弥彦山までが越国であり、今の新潟市から北は蝦夷だった。所謂「みちのく」は出羽国成立前の陸奥国のことであり、庄内・仙北を除く南東北全域を指していた。出羽国は、越後国の庄内と陸奥国の置賜・村山・最上を譲り受けて成立したことから、譲り受けた側の意識と元の所有者である越の意識とは、相当な隔たりがあったものと妄想される。しかも越のみならず陸奥からも譲渡を受けているわけで、その両者に左右から継続して挟撃される「内の」地域として出羽国は成立していた、とも言えるだろう。

山形は、まさにアガンベンが言うところの「対立しあうものの境界線上にある裂け目」に当たる地域であったのであり、だからこそそこで「あらゆるものを可能にする潜在力を透かし見」るような思想が育まれた可能性もゼロではあるまい。

これらの地域性に関する話はより時間をかけて資料を読み解くことを継続しなければ妄想しようもないが、たとえば以下に示す小野望氏『「物類称呼」の地名表示について』が参考になる。

小野望氏『「物類称呼」の地名表示について』(PDF)

黒田は、次のように語っている。

「あんにゃ」というなら、自分自身がその後の「あんにゃ」だと思っているわけですが・・・。「あんにゃ」というのはつまり自分にとっての自己異物の存在なんですよ。たとえば先の川端康成の文学のモチーフまでに関わって云々される被差別部落の問題というのは、天皇制の成立によるものとして、天皇制ーー日本国家の歴史上最初の植民地であった東北地方の場合は別な内実に現れる。それは自己体験としてはないので、ぼくの場合、その内実からの像としてはたとえば「あんにゃ」なんていうものが出てくるわけですけれども、そしてぼくは詩のうえで「あんにゃ」という名称は使わなかったし、使わないと思いますが、自分の反景物の闘いとしての自己異物化の行為は詩の根幹として続けてきたわけです。まあ、日本近代を生きる具体的な生活者たる誰か「あんにゃ」の一人を考えたら、彼は短歌定型の表現などとはおそろしく遠い存在ですが、彼の自覚しない夢(共同体、解放)を自分に体験化しよびさまそうとするとしたら、それは自己異物化の行為と分けられないものになる。別に言えば、日本近代のいわば意識下の存在、意識下の反自然のモノたちの運動のところまで、自己、あるいは自己である視線を否定客体化する、解体しようとするほかはないのですね。さっきの『伊豆の踊子』の話で言えば、その主格そのものが異様化され、異物化されるようなところまでですね。わが「あんにゃ」は、景物的文化の仮装の頂点からは最も遠いところの存在ですが、まさに、だからあなたの言われるように景物(共同体の仮装)へ投身するかしれませんし、それと分けられない反対側でスターリニズムといわれる救済へ投身するかもしれないからですね。ぼくはむしろ、この自覚から、自分の「あんにゃ」の像を自分の中に探っていったと言った方がいいわけです。そのわが「あんにゃ」の考えられる二つの分けられない投身の型は、日本近代の仮装の個人といった位相での、常民観、自然観、モダニズムへの脱出などになぞらえられると思うんですが、そういう自覚の自己異物化の、そのへんの両面の景物破棄の闘いがぼくの場合ですと、要するに詩の出発点になったというように自分では解釈するわけですけど・・・。その後の「あんにゃ」如何ということになれば、つまりは、いま現にこんなふうにじたばたしている自分自身がそうであると。(『短歌的叙情と共同体』/岡庭昇・黒田喜夫/現代詩手帖1977.08)

ここで言われている反景物/景物破棄と自己投身が、一つの布石として「」を誘う。

冒頭で引用したように黒田と対談した中上健次は、黒田没後、次のように書いた。

「あんにゃ」、母権の中から誕生した自由者と読み換えたのは、まったく私一人の恣意による。私の母の里の古座で若衆の事を、アイヤと呼ぶ。さらに私の生まれ育った熊野の路地ではアニと呼ぶ。アイヤもアニも単に「兄ちゃん」という三人称ではなく、階層や階級とあたうる限り近く、蔑称も親近感もイナセもあわせ含む言葉であるが、日本の表と裏を、北と南を「天皇」や「国家」をズラし組み変える母権の力のベルトが、「あんにゃ」=アイヤとして存在していると気づいたのだった。(『アイヤとしての黒田喜夫』/黒田喜夫全詩栞:思潮社/1985)

意識下の存在まで自己である視線を否定客体化し、主格そのものを異物化するようにしてズラした先に現れるものとは・・・

記憶或いは時間軸におけるこうした「ズラし」は、ちょうど今週報道されていた、S. Jay OlsonとTimothy C. Ralphという二人の量子物理学者が論文で数学的に示したこと=量子もつれは時間も超越(距離だけでなく、時間的に離れている粒子どうしでも互いに相関を持ちうること)をも想起させる。漸く科学も追跡の途につきつつある、というところか。

黒田における「あんにや」は、『死にいたる飢餓』と『永遠の青年』に登場する。
前者は引用されることもあるようだが、後者は稀かも知れない。

この『永遠の青年』(1964)において、「ヒラスビ」という「時間」に、当時小学生の黒田が万五郎あんにやと馬鈴薯畑辺りでばったり出会いそして逃げ出した一件、そして「ただ私の耳はみずから自分を「あんにや」と呼ぶ声を聞きつづけ、聞きつづけるその時どきに、かって或る夏の日にかん高くひびいた自分の声と黙って私を見た万五郎あんにやの顔を忘れることができないのです」と書かれている。黒田があんにやについての思考を紡ぎ始める大きな契機(のひとつ)と思われるこの一件は、再度読まれなければなるまい。

『死にいたる飢餓』では、

言葉を吐くとき、ひとびとの口は深い穴だ。深く暗い穴。ひとびとが言葉を吐くのではなく、まるで穴そのものが吐くようだ。

深く暗い穴。われわれ自身を通じわれわれ自身を超える穴。そしておそらく穴の底には、中世、近世における農奴、質物奉公人や放下人の姿があんにや達の祖として、まだうごめいているのが見えるかも知れない。

だから、私も深く暗い穴の内壁をただ上へのぼる、のぼろうとする衝動を原発のエネルギーとしてきたことは確かだーーー上へ上へ上へ。上とは何処へだ? ひとびとから見えない処へ。見えざる男になるために。不治の飢餓病から逃れるために。

彼らが戦後の激動期の或るエピソードの場景に現れ、或る姿勢をとったまま、いわば私の目のうらのネガフイルムにおさまったときには、全くのところ見える男、見られている男以外のものではなかったが、彼らはそのとき、自分が見える男、見られている男であるのをみずから徹底的に意識していることにおいて、正に象徴的に「あんにや」なのだった。この二人の「あんにや」は、みずから意識するほどぬきさしならぬ「あんにや」であり、そして、ほかでもなくそれ故に、見える男から見えざる男へとそのとき変身していたのだ。少なくとも変身しようとしていたのだ。

と書いている。最後の下りの次には、旧暦六月一日=「むけ日」=蛇が脱皮する日として餅をついて祭る(皿沼の)ならいに触れ、「蛇が夏の始めの或る日に古い皮をぬぎすてるように「あんにや」としての透いて見える体皮をぬぎすて、ひとびとの目が見透すことのできない何かを身にまとったのだ」と「二人のあんにや」に関する指摘がある。ここで冒頭で引用した皿沼の「原野」において黒田が目撃した「蛇の交わり」も想起されてくるが、まだまだ底が見えない。

底が見えない=ミズ/知れない深い穴から「見えない処へ」の脱出と、蛇が蜷局を巻いて脱皮=変身=ヘンミ(蛇の語源のひとつ)し「見透かすことのできない何かを身に纏う」ことから、或る円環性(螺旋)の運動とその反転、および両義性それ自体を問いとして生きること(パオロ・ヴィルノ)に想いが至る。

ある円環性の運動/反転を備えるようなミズの穴、此処に至って妄想子は、漸く、まいまいず井戸に辿り着くことになる。

まいまいず井戸(「羽村臨視日記」天保4年)/多摩川流域リバーミュージアムより引用

現在のまいまいず井戸/たまびと日記より引用

ここでまいまいず井戸、或いはそれに係る吉増剛造の仕事を妄想するには、余りにも紙面が足りないので、先を急ぐ。

さらに吉増剛造は、鵜飼、八角との鼎談で、次のように語っている。

鵜飼 それで井戸に向かって下りていくと同時にサウンドスケープが変わっていって、特にtakeIでは音が聴こえなくなっていくことを聴きとらせるという、今まで経験したがことがなかったような経験ですけど、それと映像の感触とがパラレルになって、見る側が吸い込まれていくような感じがするわけです。八角さんが解題に書かれているように、同時にそれはその井戸で水を汲んでいた人たちを幻視させ、takeIIでは横田基地や御嶽という言葉が出てきて、東京の郊外の羽村のまいまいず井戸が、なんと沖縄ともつながっていくということですよね。そして、ある意味では冥界ににもつながっていく。これはこの作品全体のキックオフのようなもので、まいまいず井戸から吉増さんの記憶のさまざまな層につながり、さまざまな場所にもつながる。今回の作品には出てきませんが、札幌の吉成さんがやっている・・・。

吉増 『アフンルパル通信』ですね。

鵜飼 あのアフンルパルという場所も、やはり冥界への入口と伝えられている場所ですよね。実際にあの場所がどれぐらい、まいまいず井戸に似ているのかわかりませんけれども・・・。

吉増 ほぼそっくり。
(『キセキーgozoCiné』より)

斯くして、まいまいず井戸からアフンルパルに、吹っ飛ばされることになるわけだ。

アフンルパル/hiro_s76氏「古い地名日記」より引用

いまさら書くまでもなく、異界への通路あるいはパサージュとしてのアフンルパルは、またミズとの関係も指摘されてきた。

たとえば、hiro_s76氏によれば、氏が訪れた上の写真のアフンルパルの脇には、水神が祀られているとのことだ。しかも湧水はアフンルパルの地下から噴出しているらしい。ここにも穴、パサージュ、ミズが現れる。

水神大神/hiro_s76氏「古い地名日記」より引用

アフンルパルから、今度はキオスで書いた尻労洞窟或いは沖縄へと妄想が飛翔しようとするのを留め置いて、われわれはもうひとつの穴をここで想起しておかねばなるまい。それは「塞がれなかった黒田喜夫の背中の穴」である。

尻労洞窟=安部遺跡/Yum@横浜氏「ソラとキミとワ」より引用

阿部岩夫編による黒田喜夫年譜(『黒田喜夫全詩』)から、部分的に引用し抜き出してみる。

昭和三十四年十一月

右肺が自然気胸を起こし瀕死の状態となる。ただちに「列島」同人であった御庄博美によって、代々木病院に入院させられる。

昭和三十五年四月

十一年前=昭和二十四年六月に国立療養所左沢光風園で受けた左肺合成樹脂充填術手術の化膿部位を大手術し、合成樹脂の玉を抜くも、それ以上の処置が取れず左肺背部を「切り開いたまま」となる。以後度々死線をさまよう。八月危篤状態。

昭和三十八年四月

木原啓允らの介添により、寝台車で清瀬町国立東京病院東療病棟外科に転院。六月、同外科吉村輝仁永医師により左肺上葉切除術、化膿部位切除を受けて、切り開いたままの傷を塞いだ。

この間、実に丸三年間も「背中に穴が開いたままの状態」でありながら、『地中の武器』に収録される作品などの詩作・評論を継続していたことになる。そればかりか、昭和三十七年一月、この状態で、代々木病院病室内で共産党中央統制委員会の査問を受け、すでに離党を表明していたにも関わらず「除名」されたわけだ。この間、黒田自身の文章によれば「昔やった胸部手術のあとの化膿部分を切開してそこから肺気管支までガーゼをつめ、鼻には酸素吸入のゴム管をつつこんでいる有様」(『死にいたる飢餓』あとがきより)という。
敢えて書くが、何という壮絶な戦意か。

最晩年の作品においても、

(略)
七月の朝 兇しい分泌のしたたりから
しだいに茎葉のはみでてくる譫妄の旅の
唇を見あげたままだ
瀕死の幼虫たちを垂らす歯の沿りの一叢を
しきりに医師は歯交換現象のコロニーか
これは手足口病の変種かなどと逃げ去る けれども
出羽山地民出身看護婦トミチャンは耐えきれず
そのとき扉からおれに振りかえりざま
この人の口はまるで虫地獄のにがぐさの
野(ぬつぷ)だァと指さし沙鳴った
(略)
(『毒だみ』より)

モレキュラーシアター『マウストmouthed』より

(略)

西南の窓に対し伏す 午後ふかく
幻よりそむける目前のひかりの穴
答えぬ物たちの先端のカーテンを払う 黙するビニールすだれの彼
方 窓の外の丈低い雑木のかなたのわが黄褐の陽 ひかりの腫瘍
けれども午後ふかく
目前のひかりの穴 幻より
そむける額と障子の斜面の底の
去り墜ちる陽に手折れ屈している憤怒から
しきりに燻りあがる夕暮まえは耐えず
いまわが驅身に答えは燃えよと起つ者は
そのままよろばい路へ出ていった なお
一尾のいさきに似た魚がひらひらと前を泳いでいった
(略)
(『遠くの夏 ー記・初秋某日』より)

モレキュラーシアター『BBB1』より

のように、穴=口が終わることはない。
ミズ=水・川・水源も同じく。

想えば、アフンルパルの名を冠した個展を開いた写真家露口啓二もまた、「視覚から微かにでも遊離する」ミズを追求している作家であり、その射程の間にある亀裂=裂目は底知れず深い。

今回は、余りにも長い妄想となった。
妄想に付き合わされる方もたまったものであるまい。

然し乍ら、これで漸くICANOFのKwiGua展および「飢餓の木2010」そして、今月公演されたモレキュラーシアター作品「のりしろ nori-shiro」が、妄想触手の射程距離に入ったとも言えよう。

妄想子にとって「のりしろ」体験とは、表層からは見えない/見ないしかし我々の視線/思考の裂け目を励起して止まない或る種の出来事の発現であり、それに出会した/直面した時の戸惑いと或る種の衝撃を、徹底して注意深く自身の体験(の内部)から「再」召喚し更に開いていく「格闘」への参画を促されるようなものであったと、取り敢えず今は思っている。

だが、その前に越えなければ、いや踏み入らねばならない「川」がある。

及川廣信『村への遊撃ー黒田喜夫に』/©Aki YONAI ©ICANOF

ダンス「村への遊撃 ―黒田喜夫に」において及川廣信が最後に踏み入っていった「川」はどこに向かって流れていたのだろうか。

キオスモ

September 11, 2010

まず一篇の詩を(部分的に)引用してみよう。

夜半に見る
河をわたる肢(あし)
わたしは眠っているのではない
胸から切れこんで地にはしる流れの
岸に倒れていた
身をもたげて見た
月布川という出羽褶曲大地の
切れこみが深く
眼前をえぐって対岸の岸が剥落するのを
黒くわれめを見せ中空に放たれるが
次に音なく土塊が夜光する流れに
崩れ落ちつづけるのを

岸に身をもたげ
わたしは眠っているのではない
白昼の眠りの中ならこうだ
・・・眠りの中に現れる村がある
ダムの底でも古い遺跡でもなく
薄明の水そこに宿(しく)とよばれる群落に似た
家並がある
白昼の眠りの中なら 水そこの遠くから
家並の間を金色の獣の仔のようなものが走り
近づいてきたと思うと
不意に鉤を喰(は)んでのけぞり
みるみる白濁した死魚の形となって
水面に吊りあげられてゆく
この痛恨の懐しさにわたしは眠っているのではない

続いてもう一篇(部分的に)引用してみよう。
板張りのしたを流れている、川をわたしははじめ下水(どぶ)だとおもったが、水音を聞いていると、わずかながら囁く声がある。工事人足たちのおしゃべりとおもったが、違う。枕のしたを流れる京都舞妓の夢ともちがう。むしろ濁った酒、血の川、酒の川に似ているだろうか。灘という不思議な溝。大蛇、下水(どぶ)、池、堤防、蛇籠(じゃかご)、鯰、環太平洋、和歌山、銀河、どこか水音が違う。血が流れている。水上の魔の家であろうか。しかとは判らぬ。覗きこむと水のなかに沈んでいる深い井戸がみえる。それは沖積期時代の古い井戸であるらしい。そこにも血が流れている。たしかに下水(どぶ)ではない。悪臭が聞こえてこぬのだから。登呂であろうか長瀞。泥土に埋葬され血の川を覚えて囁きあう人柱伝説、飯場、工事現場には、太古より人足たちの優しい友情が存在している。飯場、お箸やドラムカンがみえる川辺の風景が遠くにみえてきた!そして、熊野では浮島を浮かべ、献灯は静かに太平洋を還流する、非常な高熱の血の川である。

言うまでもなく、引用一篇目は、黒田喜夫夜の兵士たちへ ーー枕頭詩篇より』(1977/思潮社「自然と行為」所収)、二篇目は吉増剛造血の川くだり』(1974/青土社「わが悪魔祓い」所収)である。

黒田喜夫「自然と行為」

吉増剛造「わが悪魔祓い」

安易に比較することは勿論出来ないし意味を持ち得ないが、何れも水=ミズ=見ずの奥底に潜み揺蕩うものを掬いあげようとすることを介して、見えるものと見えないものとのズレ、身体性と身体性から剥離されたものとの余白、想起不可能な記憶の想起における記憶の可塑性の明滅、色彩・音・視覚と心象とのキワなどについての、ある種の「転覆」について触れているようにも(妄想子には)妄想される。

「それを取ったら何もなくなるといえるような私の一点があった、あるとしたら、それはアジア的身体の両義性への眼と痛みある共感といったものだ、と言っておこう。両義性を両義性のまま背負うことの戦闘性のみならず、身体である故に自らの身体を視得ないもの--その身体自身が、自ら視開き得るところへの方途の困難さへの目差しをはなさない、そのことである。」(「人はなぜ詩に囚われるのか」所収『清瀬村より』より)と書いた黒田喜夫は、山形県米沢市で生まれた後、同県西村山郡寒河江町皿沼(現:山形県寒河江市大字島字皿沼)で育った。

皿沼

皿沼地区は文字通りの低地で、最上川寒河江川の二本の川に挟まれたところにある。皿沼の北東にある泊川(とまりが)は辺り一面の桑畑(『毒虫飼育』を想起させられる)であると同時にツツガムシ発生の地でもり、「近づくな」と地元で言われていた地域だった。笊籬=アイヌ語のsar=葦原との関係も頭を過る。久米正雄『蛍草』で書かれたのも(妄想子は未確認ながら)この泊川地域(現:河北町溝辺)のことであるらしい。

恙虫祠
:天心園氏のブログ「農天記」より引用

冒頭の引用にあった月布川は古名を漆川といい、貞治七年、攻める斯波方と迎え撃つ寒河江大江方が激突した戦場域であり、上流方向に月山を仰ぎ、上記地図左上端にある左沢(あてらざわ)で最上川に注ぎ込む支流である。

この左沢は、米沢にいた吉本隆明が徴兵検査を受けた町であり、黒田喜夫によればアテラザワ=ate-e-ra-nay=オヒョウニレ・そこの・下方に・沢=楡の木のある所の下流の沢の意であるらしい。勿論、アテラから直ちに連想されるように、八世紀の東北大抵抗戦争の統領「阿弖流為(アテルイ)」の名との繋がりの指摘もある。そういえば、アテルイという作品のフランス公演で成功を収めたモレキュラーシアターという劇団もあった。

「アテルイ」パリ公演 ©Molecular Theatre

黒田喜夫は上京した後、糀谷(蒲田)を経て、彼の言うところの「清瀬村」に居住する。ここでいう清瀬村は清瀬市(恐らくは黒田の住居があった清瀬市竹岡二丁目界隈)のことだが、その前身は神奈川県北多摩郡清瀬村~東京府北多摩郡清瀬村だった。

奇妙なことにこの清瀬村も、皿沼同様に、二本の川で挟まれている。柳瀬川野火止用水である。さらに流域には淡路島の形の池=心字池・トンボ池・放生池がある平林寺がある。黒田が相当に気に入っていたと思われる糀谷も、謂わば多摩川呑川に挟まれた地域と見ることができる。

とすると、黒田喜夫は、二本の川で挟まれた、言うならば二本の川に挟撃された余白に、幼少時から死去するまでは住んでいた、と云えるかも知れない。

清瀬村

相似した地形がある。

皿沼ならぬ天沼の程近く、二本の川=半兵衛・相澤堀桃園川に挟まれた武州多摩郡阿佐谷村である。
ここで生まれた詩人が吉増剛造だ。

吉増剛造はいまの福生市=神奈川県多摩郡福生村~東京府西多摩郡福生村にて育つことになるわけだが、この福生市も玉川上水多摩川・田村分水という二本の川に挟まれた地であり、しかも福生(古くはふっちゃ)という呼称自体、アイヌ語で「沼のほとり」或いは「湧水」を意味する言葉が変じた可能性が指摘されているものだ。また、この地域の地名にはマオリ語の痕跡が残るという説もあり、それによればフッサ=フツ・タ=hutu-ta=魚を捕る網を仕掛ける(場所)/フ・ツタ=hu-tuta=(多摩川が)狭くなった場所の裏側の・湿地(または丘陵)の転訛らしい。
いずれにしても、またしても「二本の川の隙間」と「沼」である。

吉増剛造は「境界線というものをいつも意識させられていたし、常に、始まりの始まり、みたいなところを意識しつつ、隈どりや縁(ふち)を自覚していたんですね。ですから、境界線に文字を書こう、というのは割合過不足なく両側にまたがって出てきた。境界線をまたぐ瞬間というか、境界線にまたがれる瞬間というのを、自分の創造の一番のポイントにしていこうという気持ちがあるからでしょうね。」と語っている。勿論、この対談で吉増自ら触れるように「僕は基地の子ですから、フェンスや金網がいつも気になっている」ということも背景にあるとは思うが、妄想子には二本の川による「隈取」が浮かんでもくるのだ。

福生の地名由来には上記のほか、やはりアイヌ語由来によるフッサ=hussa=「まじない、悪魔払い」という説もあるが、吉増剛造には冒頭の引用にもあるように『わが悪魔祓い』という詩集がある。その中からもう一節引用する。
少年時代、おれは濁流のなかで両眼をひらき、眼にびっしりとつまる泥土、砂利つぶをみた。仏教の卒塔婆、供物の野菜類も墓所から流れきたった。上流には死体も埋葬されていたのであろう。キャサリン台風であったろうか、アイオン台風であったか、台風後、洪水の、濁流のなかを泳ぎながら、そのとき溺れはじめるという感覚はすこしもなく、おれは死骸であり、洪水の刑に処せられた死刑囚であったとでもいおうか。明らかにそれは死への陶酔であったが、無意識のうちにおれはおれの運命をみていた。水を泳ぐという感覚、いや肉体を水につつまれるという快感がうまれたのはそのあとのことであって、おそらく自らの死体を感じてしまったのちにはじめて生じた快楽だったのであろう。
『地獄わたりはじめ』(1974/青土社「わが悪魔祓い」所収)より

この「通常の意味では眼は機能しない」筈の状態化で「視る」という流れからして、やはり「見えない水」=「不可視の水」=ミズによって駆動され反復されるものを妄想してしまうのだが、いずれにしても、疎開先=和歌山の紀ノ川で機銃掃射を受け水面に水煙があがったのを「音として」聴いた吉増剛造、別の場所での機銃掃射のカタカタカタカタ・・という音が「木の階段をカタカタカタカタ下りてくる妖精のような音」に聴こえた吉増剛造、柴田南雄の「布瑠部由良由良」の上演において『地獄のスケッチブック』を朗読しつつ「ごおろごおろぼわっー」と聴こえた音に「不思議なねじとゆれ」を感じ「深い処から存在を揺りうごかされた」吉増剛造・・・が、解体において転移しつつ存在する黒田喜夫の「飢餓の思想」、そして母方の祖父が黒田喜夫と同郷である鵜飼哲の指摘による「飢餓の思想」と、どのように絡んでくるのか、今回のKwiGua展への興味は尽きない。

KwiGua展と言えば、その開催場所=八戸もまた、馬淵川新井田川に挟まれ、八太郎沼・北沼に近接した地である。
反復される「二本の川」の挟撃と「沼」地。

八戸市美術館

少しばかり、妄想が長くなりすぎた。

然しながら、吉増剛造と「打ち震えていく時間」(思潮社)において対談している前述の柴田南雄の弟子であり、かつクセナキスの弟子である高橋悠治が、クセナキス批判を展開した『たたかう音楽』(「展望」1977.03)を読みながら、更に妄想は拡がる一方だ。恐るべし黒田喜夫。

よって、前回から続く「あんにや」→「穴」→「まいまいず井戸」→「尻労洞窟」→「アフンルパル」の妄想については、次回に廻すことにする。
果たしてKwiGua展に間に合うかどうか。

キオス

August 24, 2010

尻労、という地がある。

尻労漁港(「みちと標識の写真館」より)

いまで言えば、青森県下北郡東通村尻労に当たる。
この尻労を舞台にした映画「忘れられた土地」が撮影されたのは、1958年のことだ。

「忘れられた土地」(野田真吉「ある映画作家」より)

監督の野田真吉は「現在、私の撮影した下北半島北端の村々は高度近代化社会の吐き出す、まるでゴミ捨て場と化しつつある。自衛隊の実弾射撃場、巨大な石油備蓄基地になり、原発の核燃料廃棄物の処理、再生工場、原子力船の碇泊港などの計画が着々と建設に移されつつある。」(「ある映画作家」野田真吉)」と書いた。言うまでもなく「その後」を我々は知っている。

愛媛県八幡浜市出身の野田真吉は、早稲田大学時代、予てより私淑していた中原中也に高橋新吉の口添えで紹介を受け師事することで詩作の道に踏み込み、後に長谷川龍生・黒田喜夫らの「現代詩の会」に参加し、黒田喜夫と同じく日本共産党にも入党している。1955年に撮影された「この雪の下に」(エジンバラ国際映画祭’56招待作品に選出)の舞台が、山形県村山地方つまり黒田喜夫の育った地であることも、「現代詩の会」での出会いと無関係ではあるまい。

「この雪の下に」(野田真吉「ある映画作家」より)

その野田真吉が、「忘れられた土地」の映画音楽作曲を依頼し、後に黒田喜夫の詩論集「不安と遊撃」を手渡して、結果として深い影響を与えた男がいる。
作曲家間宮芳生である。

間宮芳生は、北海道旭川出身だが、思春期を青森市で過ごしている。野田真吉に渡された「不安と遊撃」が契機となり、黒田喜夫の思想と詩に傾注していく間宮は、後に黒田喜夫への挽歌として(少なくとも)二作品を作曲することになる。

間宮芳生「尺八とチェロのためのキオ」

そのひとつ「尺八とチェロのためのキオ」(1988)は、坂田誠山の委嘱とヨー・ヨー・マへの「約束」から作曲されたものだが、作品解説には黒田喜夫「不歸郷」からの一文が引用されている。相当に黒田思想に共鳴したと思われる間宮は、黒田の「餓鬼図上演」「原点破壊」「空想のゲリラ」「毒虫飼育」などに惹かれ、かつ「癒えることのなかった精神の飢餓感(間宮芳生)」や「きしみ」「あえぎ」などを、自分の音楽・作曲思想のうちに受肉させていったようだ。黒田の「原点破壊」の影響下で書かれた作品が「弦楽四重奏曲第一番」(1963)である。

間宮芳生「現代音楽の冒険」(岩波新書)

その後間宮は、黒田喜夫の詩による声のパートの作曲(様式)を考えていく中で、シェーンベルク「ワルシャワの生き残り」(1947)に辿り着く。詳細には触れないが、この作品では、シェーンベルク自身による、絶滅収容所における或る日の出来事を生き残った一人のユダヤ人が証言するという形のテクストが用いられている。さらに間宮は、ポーランドの作曲家クシシュトフ・ペンデレツキとヴィトルト・ルトスワフスキの仕事に注目して自らの語法を深化させていくようになる。黒田喜夫の詩・詩論と音楽におけるその転移を思考する中で、独立喪失後に民族運動の拠点ともなったポーランドの作曲家の語法に辿り着いたことも、偶然ではあるまい。

ワルシャワ・ゲットーからの葉書(The H.E.A.R.T Collection)

野田真吉・間宮芳生「忘れられた土地」が製作される1年前に、尻労から陸奥湾側に斗南の脊梁=下北丘陵を越えたところにある隣町=上北郡横浜町出身の画家が、大学を卒業し「新表現主義」創立に参加している。
豊島弘尚である。

豊島弘尚(「デーリー東北」紙より)

豊島弘尚についても、今更多くを説明する必要はあるまい。

一貫して「北(の光)」を主題とし、かつ「思想なき絵画は芸術ではない」といった姿勢=生様と、補色関係の多用という印象が強いが、勿論これは妄想子の安易な表層的な印象に過ぎない。然しながら、その熾烈とも云える思考は安東水軍の末裔という出自が為せるものなのか。

豊島弘尚「顕現(春・萌の海)」(「はちのへ医師会の動き」No.454より)

「撃」「潜」「天と地の往復書簡」といった独特の強度を伴なう作品群を産み出した豊島弘尚は、青森には「今なお縄文のエネルギーが渦巻」いているとも語っているが、まさに「日本中央」の東北町は、豊島の出身地横浜町とほぼ同経度にあって横浜町と八戸市との中間に位置しており、野田真吉「忘れられた土地」の尻労(記録は残されていなく推測とされるが)共々、菅江真澄の探訪経路に面している。

秋元松代「菅江真澄 常民の発見」より

豊島弘尚が「手ほどき」を受けたとされる書家・造形家の宇山博明についての情報、特にその思想に関する資料は決して多くはない(宮沢賢治の詩の書と大英博物館所蔵の凧絵の情報ばかりだ)と思われるが、豊島弘尚も招待作家たる今回のICANOF「KwiGua展」の前週=9/12まで、コレクション展Ⅱ「宇山博明展~わたしが風さ~」がKwiGua展会場=八戸市美術館で開催されており、宇山博明ー豊島弘尚を考える好機になろう。つまり、在八戸ではないマニアの滞在期間は長くならざるを得ないということだ。

因みに、ユニオン石立鉄男ドラマ「雑居時代」「パパと呼ばないで」「水もれ甲介」のオープニングアニメを担当した「豊島弘尚」氏と同一人物かどうかは、未だ妄想子にも確認できていない(恐らく同一人物と思われる)。また蛇足乍ら、夫人は東京出身の画家「豊島和子」だが、豊島弘尚の実姉の舞踊家も「豊島和子」である。

舞踊家豊島和子と言えば、日本のモダンダンスの父(といった呼称の意味はともかく)と称されるノイエタンツの「輸入」者=江口隆哉・宮操子の弟子であるが、江口隆哉は豊島弘尚出生の横浜町と東北町の中間に位置する上北郡野辺地町出身であり、安易に踏み込むことは控えるにしても、やはり地理的因縁(への妄想)を覚える。

PICAIA/豊島和子(2006.09.18「パンタナル」公演より。℗フォトセンター惣門)

尻労、という地があった。

古い漁村ということから、例えば「烏賊の腑」を剔り採るような座作業を強いられた「尻」を「労う」という意味もあるのでは?と考えるのは、モレキュラーマニアならぬ単なる幸せな夢想者である。

この「尻労」(青森県下北郡東通村尻労)を考えるには、「静狩」(北海道山越郡長万部静狩)をも考えなければならない。
山田秀三「東北と北海道のアイヌ語地名考」によれば、尻労も静狩も何れもシッ・トゥカリ=Sit-tukari=Sir-tukari=「山の手前」とアイヌ語に於いて解釈することができ、かつ山の近くに類似の地名があれば常に何処でも同じ解釈が許されることになるのではなく、尻労・静狩のように長い砂浜の続いた終点に山が聳えている地形とこの地名とが結びついていることを現地調査で確認した、とのことだ。

山田秀三「東北と北海道のアイヌ語地名考」(「アイヌ民族文化研究センターだより NO.28」より)

アイヌ語には、シレトク=Sir-etok=「大地の行き詰まり」という言葉もある。言うまでもなく、知床を指す。

知床半島西側の付根にある斜里から少し行くと峰浜という地名があり、ここにはシマトカリ川が流れている。シマトカリ=シュマトゥカリペツ=Suma-tukari-pet=「岩の手前の川」=「朱円」(斜里の旧呼称)であり、尻労や静狩と同様に、「交通」「網」が「遮断」されている手前=キワの状況を指す。開催1ヶ月前に「KwiGua展」を妄想する者にとっては、相当に示唆的なことではあるまいか。

黒田喜夫「神謡・生きられた詩的母胎の画像」(現代詩手帖1982年9月号「特集:非言語の解読」より)

更に黒田喜夫には、アイヌ語と琉球/沖縄語との対比を含む「神謡・生きられた詩的母胎」というテクストがあり、この辺りから愈々KwiGua展のもう一人の招待作家=吉増剛造にも幽き妄想線が引かれ始めるところだが、その愚行は回を分けることにする。つまり、この妄想稿の「続き」には、「皿沼から天沼」そして「安部遺跡=尻労洞窟」への妄想線も含む、ということだ。

安部遺跡=尻労洞窟(「下北半島の遺産」より)

黒田の「アジア的身体の両義性への眼と痛みある共感」「両義性を両義性のまま背負うことの戦闘性のみならず、身体である故に自らの身体を視得ないものーーその身体自身が、自ら視開き得るところへの方途の困難さへの目差しをはなさない」(黒田喜夫「人はなぜ詩に囚われるか」より)に指先が届くのは何時の日になることか・・・

鵜飼哲「応答する力」(青土社)

鵜飼哲「応答する力」を再読し、嘔吐せずにいや嘔吐を厭わずに応答するべく、妄想力に限界まで拍車を掛けて駆動する必要がある。隻手音声。